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事件 昭和 41年 (ワ) 12563号
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裁判所 東京地方裁判所
判決言渡日 1988/12/23
権利種別 著作権
訴訟類型 民事訴訟
主文 一 被告(反訴原告)は、昭和四〇年六月一四日付け文部省第八四一〇号で登録された詩集「智惠子抄」の著作年月日登録の抹消登録手続をせよ。
二 引受参加人は、別紙第一表記載の詩文により構成され、昭和一六年八月二〇日に初版が発行された詩集「智惠子抄」を出版発行してはならない。
三 被告(反訴原告)の反訴請求をいずれも棄却する。
四 本訴反訴を通じての訴訟費用及び引受参加の費用のうち、原告(反訴被告)に生じた費用についてはこれを三分し、その二を被告(反訴原告)の、その余を引受参加人の各負担とし、被告(反訴原告)に生じた費用は被告(反訴原告)の、引受参加人に生じた費用は引受参加人の各負担とする。
事実及び理由
当事者の求めた裁判
一 本訴請求の趣旨1 主文第一、二項と同旨。
2 訴訟費用及び引受参加の費用は、被告(反訴原告。以下、「被告」という。)及び引受参加人の負担とする。
二 本訴請求の趣旨に対する答弁1 本訴原告(反訴被告。以下「原告」という。)の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用及び引受参加の費用は原告の負担とする。
三 反訴請求の趣旨(被告)(主位的請求の趣旨)1 主文第二項記載の詩集「智惠子抄」(以下、「智惠子抄」という。)について、被告が編集著作権を有することを確認する。
(予備的請求の趣旨)2 「智惠子抄」について、被告が編集著作権の持分二分の一を有することを確認する。
3 反訴の訴訟費用は、原告の負担とする。
四 反訴請求の趣旨に対する答弁1 主文第三項と同旨。
2 反訴の訴訟費用は、被告の負担とする。
当事者の主張
一 本訴請求の原因1 亡A(昭和三二年四月二日死亡。以下、「A」という。)は、別紙第一表記載の詩二九編、短歌六首及び散文三編を著作した。
2 「智惠子抄」は、第1項の詩、短歌及び散文を、別紙第一表記載のとおりに配列、構成した編集著作物である。
3 Aは、昭和一六年ころ、次の経緯により「智惠子抄」を編集著作した。
(一) Aは、昭和一四、五年ころ、わが国における代表的詩人の一人として高い評価を受けていたが、詩集としては大正三年一〇月二五日に発行された「道程」(初版。以下、「道程」という。)が唯一のものであつた。
(二)(1) 被告は、Aの詩集を出版したいと考え、昭和一四年三月ころから、
その希望をAに申入れていたが、承諾を得ることができなかつた。そうするうち、
被告は、Aの作品の中から、その夫人であるBことC(以下、「B」という。)に関する詩文を集めて一冊の本を出版する企画を立てた。
(2) 右企画を立てた当時、Bに関するAの作品として被告の念頭にあつたのは、以下の作品のみであつた。
イ 「道程」所収の以下の詩一四編 「|に」(「智惠子抄」に収録されるに際し「人に」と改題された。以下、当初後記「第一次案」に収録されていた「人に」と区別して、「『人に』(いやなんです)」という。)、「或る夜のこころ」、「おそれ」、「或る宵」、「郊外の人に」、「冬の朝のめざめ」、「人に」(前述の「人に」(いやなんです)と区別して、以下、「『人に』(遊びじやない)」という。)、「深夜の雪」、「人類の泉」、「僕等」、「愛の嘆美」、「婚姻の榮誦」、「晩餐」、「淫心」ロ 昭和一五年一二月一日発行の婦人公論に発表された「彼女の半生」(後に「智惠子の半生」と改題された。以下、「智惠子の半生」という。)中に、完全に又は部分的に引用されている以下の三編の詩「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」ハ 昭和一〇年五月「書窓」に発表された「風にのる智惠子」ニ 昭和一二年八月「改造」に発表された「千鳥と遊ぶ智惠子」、「値ひがたき智惠子」ホ 昭和一三年八月から昭和一四年九月まで「新女苑」に発表された「山麓の二人」、「或る日の記」、「レモン哀歌」、「亡き人に」ヘ 昭和一五年五月「蝋人形」に発表された「梅酒」 以上詩二五編ト 昭和一五年一二月「婦人公論」に発表された「彼女の半生|亡き妻の思ひで」(前記「智惠子の半生」)チ 昭和一四年二月「新風土」に発表された「智惠子の切抜繪」 以上散文二編(3) 被告は、昭和一五年一二月ころ、右(2)の詩及び散文について、別紙付表Tのとおりの「内容順序表」(以下、「内容順序表」という。)を作成し、前記3(二)(2)イの「人に」(いやなんです)から「淫心」までの各作品が掲載されている各頁に赤い紙をはさんだ「道程」、「風にのる智惠子」が掲載された雑誌「書窓」、「千鳥と遊ぶ智惠子」から「梅酒」までの詩七編及び「智惠子の半生」、「智惠子の切抜繪」の散文二編が掲載された雑誌の切抜を、別紙付表Uの被告D原案欄記載のとおりに配列して(以下、これを「第一次案」という。)、Aに交付した。
Aは、第一次案を預かるにとどまつた。
(三)(1) Aは、昭和一六年六月一一日ころ「荒涼たる歸宅」を制作したことを契機として「智惠子抄」の編集著作を決意し、同年七月ころまでに、後記3(三)(2)のとおり、「智惠子抄」の編集著作を終了して、被告に「智惠子抄」の出版を許諾し、その際、それまでに預かつたすべての資料及び内容順序表を被告に返還するとともに、最終原稿を被告に交付した。
(2) Aは、自ら創作した作品にどのようなものがあるかを熟知していたし、その資料もすべて保存していたが、右の許諾を与えたころまでに、被告から提供された前記「道程」等の資料とは別の、手元に保存していた資料に基づき、以下のとおり、詩歌及び散文を取捨選択し、配列して「智惠子抄」を編集著作した。
イ 当時、AがBに関し制作していた詩は、別紙付表Uの三五編の作品のうち、
「荒涼たる歸宅」及び「婚姻の榮誦」を除く三三編であつたが、Aは以下のとおり、これらの作品を取捨選択した。
@ 大正一年九月発行の「スバル」に、「或る夜のこころ」、「おそれ」と同時に発表した「涙」及び「からくりうた」の二編は、「智惠子抄」に収録しないこととした。
A 第一次案に収録されていた「婚姻の榮誦」は、Bに関する作品ではないので、
「智惠子抄」に収録しないこととした。
B 「梟の族」は、Bに関する作品であるが、「智惠子抄」に収録しないこととした。
C 第一次案に収録されていた「人に」(遊びじやない)及び「淫心」の二編も、
Bに関する作品であるが、「智惠子抄」に収録しないこととした。
D 昭和一五年一一月に発行された「道程」(改訂版。以下、「『道程』(改訂版)」という。)に収録されている「狂奔する牛」及び「鯰」は、第一次案に収録されていなかつたが、「智惠子抄」に収録することとした。
E 第一次案に含まれていなかつた「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」及び「人生遠視」の四編を「智惠子抄」に収録することとした。
F 「道程」以降の作品であり、大正一五年二月号の「彫塑」に発表した「金」は、「智惠子抄」に収録しないこととした。
G 新たに制作した未発表の作品「荒涼たる歸宅」を「智惠子抄」に収録することとした。
H 大正一三年以降雑誌「明星」「中央公論」「知性」「いつかし音信」などに発表していた数多くの短歌からBに関する別紙第一表記載の「うた六首」を選び、これを「智惠子抄」に収録することとした。
I 散文として、第一次案に含まれていた二編のほか、昭和一六年七月「新若人」に発表した「九十九里濱の初夏」を加えることとした。
J 昭和一〇年五月執筆の「新茶の幻想」並びに昭和一四年四月号及び九月号の「歴程」に発表した「某月某日」はBに関する散文であるが、「智惠子抄」に収録しないこととした。
以上のような経過により、「智惠子抄」に収録された全作品が選択された。
ロ 素材の配列の経過は次のとおりである。
@ Aは、被告から提供された資料とは別の、当時A自身が所持していた資料に基づき、詩及び散文の制作年月日ないし制作年月を確定した。
A 詩の配列は原則として制作年月日順とした。そのため、「智惠子の半生」から採録された「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の各詩の順番が、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」の順に変更された。
ただし、「荒涼たる歸宅」だけは、Bのなきがらの帰宅を主題にしているので、
Bの死後に同人をしのんだ作品である「亡き人に」及び「梅酒」の前に配置した。
B 短歌については、発表時とは全く順序を変更して並べ替え、漢字や仮名の文字使いを校訂したうえ、「うた六首」としてまとめあげて、これを詩の作品の直後に配列し、散文は、その後に配列した。
C Aは、右の配列を基にして、「詩集『智惠子抄』目次年表」(以下、「目次並作品年表」という。)又はその原案を制作した。
ハ Aは、「智惠子抄」に収める作品の大部分について、綿密な推こうを行い、それまで使用されていた表現に修正を加え、「○○○」、「○○○」などの名前を「B」に統一し、詩に「|に」の題名を「人に」(いやなんです)と変更するなどした。
ニ Aは、「智惠子抄」の編集著作を決意したころまでに、題名を「智惠子抄」とすることに決め、その旨を昭和一六年六月二二日ころまでに葉書で被告に通知した。
ホ Aは、昭和一六年七月ころまでに以上のような編集作業をすべて終了し、最終原稿を被告に交付した。被告は、この最終原稿に基づき、約一週間の間にこれを印刷所に回すことができるような状態に整理してAに交付し、Aの了承を得たうえ「智惠子抄」として出版した。
以上が「智惠子抄」の編集著作の経過である。
このように「智惠子抄」は、Aが、昭和一六年七月ころまでに、作品の取捨選択、推こう、制作年月日の確認、配列、「目次並作品年表」の作成及び題名の決定をして創作したものであり、Aの編集著作にかかるものである。
4(一) 前述した3(二)の被告の行為は、出版の企画とこれにともなう出版者としての協力にとどまるものであつて、何ら著作行為としての編集に当たるものではない。すなわち、
(1) Aの作品中、Bに関するものを一まとめとして考えるという着想は、Aの読者の中では決して珍しいことでなく、独創性があるものではなかつた。
(2) 大正三年八月制作の「淫心」から昭和一〇年四月号の「書窓」に発表された「風にのる智惠子」に至るまでの二〇余年間の作品、すなわち、AB夫妻の結婚生活の大部分を占める時期であり、Bの発狂という悲劇に向かつていく二人の生活を反映する重大な意味を持つた詩が、「智惠子の半生」に引用されている「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の三編を除いて、
全く脱落していた。
これらの作品のうち、「美の監禁に手渡す者」を除いては、いずれも当時広く普及していた刊行物に収録されていたもので、極めて発見が容易であつたのに、被告はこれを知らなかつたし、知ろうともしなかつた。また、「梟の族」がBに関する作品であると気付かず、「うた六首」についても選択しなかつた。更に、Bとは無関係な作品である「婚姻の榮誦」を含めていた。要するに被告は、当時被告がBに関する作品として認識していた限りの作品を集めただけであつて、Aの作品を編集物の素材として網羅的、系統的に収集する努力を払つたことはなかつたし、その素材の収集、選択も粗雑極まるものであつた。
(3) 第一次案は、「道程」中に収められている詩一四編については、同書の配列をそのまま踏襲し、「彼女の半生」中に引用された三編については引用された順に、「風にのる智惠子」以下の八編についてはこれが掲載された雑誌の発行年月順にそれぞれ配列したものであつて、一貫した方針に基づいてされたものでなく、極めて安易な配列であつた。
(4) 内容順序表の最下欄に示された年月は、「道程」から収録された一四編については、「おそれ」を除き、同書中に記載されている制作年月日から単に年月だけを取出して記載したものであり、「風にのる智惠子」以下の八編については掲載誌の発行年月を記しただけである。また、三編の作品については空白のままになつている。
被告らは、「おそれ」について、その「道程」中の配列箇所及び内容から、大正一年八月の制作と推定した旨主張するが、内容から考える限り八月の制作とも九月の制作とも決めかねるはずであるから、被告らの主張は採用できない。このように、内容順序表における作品の配列、年月の記載も、一貫した方針に基づくものでなく、まことに容易かつ粗雑であつた。
以上のような事実からして、被告の行為は出版の企画とこれにともなう編集者の協力にとどまるものであることが明らかである。
(二) 第一次案が被告の編集した著作物であつたとしても、被告は、その編集著作権を取得することができない。すなわち、昭和四五年法律第四五号による改正前の著作権法(明治三二年法律第三九号。以下、「旧法」という。)の下においては、「適法」に編集された著作物についてのみ編集著作権が成立するのであるから、Aの同意がない以上、第一次案について被告が編集著作権を取得できる余地はなかつた。Aは、被告に編集を一任したこともなく、このような形でBに関する作品を選択配列することを承諾したこともなかつたから、被告がその編集著作権を取得することはできなかつた。
更に、第一次案は、前記のとおり、素材の収集、選択、配列等において極めて粗雑なばかりでなく、「智惠子抄」における素材の収集、選択、配列とは基本思想を異にするものであつて、「智惠子抄」とは異質かつ別異の著作物である。
したがつて、いずれにしても、被告が第一次案を制作したからといつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したということはできない。
5 Aが「智惠子抄」を編集著作したこと及び被告の行為が出版者としての企画と著者への協力にすぎなかつたことは、以下の事実からも明らかである。
(一) 被告は、自らが最初に出版し、その後引受参加人が出版している「光太郎智惠子」の「編集者附記」において、
一 本書は、二十年前、詩集『智惠子抄』を編集刊行した者が、再び光太郎智惠子の詩文と書簡を年代順に編集構成したものである。
一 『智惠子抄』の時は著者が内容の取捨を決め、生と思われる若干の詩篇を割愛した。
と述べており、素材の取捨選択はA自身が行つたことを明らかにしている。
(二) 被告が最初に出版し、その後引受参加人が出版している「智惠子抄」のしおりには、昭和二二年七月号の「婦人朝日」に掲載された「『智惠子抄』が世に出るまで」と題する小文が全文転載されているところ、この中に、「AはD氏の集めた詩篇の中から余計なものを除いてBの像を彫り上げていつた。「こつぱは突つ込むな」といいながら、惜し気もなく捨てるものは捨ててしまつた。」と記載されており、取捨選択がAの手によることを確認している。
また、右しおりには、「『智惠子抄』決定保存版について」と題する被告の文章が収められており、これには、「A先生の死後、劇、映画、能、小説、全集もの、
文庫本など、色々の形で『智惠子抄』が喧伝されていますが、先生が生前、御自身で厳密に校訂をされ、これ以上この内容を変更してはならない、と決めて上梓されたのは龍星閣版『智惠子抄』だけです。」と記載されており、「智惠子抄」は、Aが被告に編集を委ね、被告の創意に基づいて編集されたというようなものでなかつたことを被告自身が明らかにしている。
(三) Aは、「智惠子抄」に引続き、昭和一九年三月、被告の出版により詩集「記録」を刊行した。Aは、この序文の冒頭に、「龍星閣主人Dから慫慂せられて又この詩集を編んだ」と記している。この「又この詩集を編んだ」という表現は「『智惠子抄』の編集に引続き、又この詩集『記録』を編集した」という意味にしか理解しようがない。詩集「記録」以前に「大いなる日に」が道統社から、また、
「をじさんの詩」が武蔵野書房からそれぞれ出版されているが、これらは被告による出版ではないから、「D氏に慫慂されて又」とは、「智惠子抄」の編集に引続いてという意味であることが明らかである。
(四)(1) 「智惠子抄」には、初版以来Aの死に至るまで、常に、「著者A、
発行者D」とのみ記されており、被告がこれを編集したことを窺わせるような表示は全く存在していなかつた。全収録作品の各々についても、詩集全体としても、Aだけが「著者」として責任を負う旨が明示されていた。
(2) Aは、他人に作品の取捨選択を委ねた場合は、以下のとおり必ず編集者が誰であるかを明示していた。
イ 「道程」(改訂版)は、訴外E(以下、「E」という。)が編集著作したものであるが、奥付及びEの「編纂者の言葉」によりその旨が示されている。
ロ 昭和二二年七月鎌倉書房刊「高村光太郎詩集」は、訴外F(以下、「F」という。)が編集著作したものであるが、奥付及びFの「覚書」と題する後記によりその旨が示されている。
ハ 昭和二六年九月創元社刊「高村光太郎詩集」は、Fが編集著作したものであるが、巻末のFの「編纂覚書き」によりその旨が示されている。
ニ 昭和二五年一月新潮社刊文庫版「高村光太郎詩集」及び昭和二八年六月新潮社刊「高村光太郎詩集」は、いずれも訴外Gの編集にかかるものであるが、奥付にその旨が示されている。
ホ 昭和二五年一〇月中央公論社刊詩集「典型」は、訴外Hの編集にかかるものであるが、奥付、Aの序文及び訴外Hの「覚え書」にその旨が示されている。
ヘ 昭和三〇年三月岩波書店刊文庫版「高村光太郎詩集」は、訴外Iが編集の実務に携わつたものであるが、Aの「はしがき」及び訴外Iの「あとがき」にその旨が示されている。
(3) したがつて、もし被告が「智惠子抄」の編集を行つていたり、編集に相当程度の協力をしていたのであれば、「智惠子抄」にもその旨が明示されたはずであるのに、実際にはされていない。これは、被告が「智惠子抄」の編集に関与しなかつたからである。
(五) Aは、訴外Jにあてた、昭和一六年九月の書簡の中で、「智惠子抄」について、「ふるい詩が多いので少々面ぶせな気がしましたが、自分が書いたものである以上是非もないので、そのまま集めました。」と書いている。もし「智惠子抄」を被告が編集したのであれば「是非もないのでそのまま集めました。」などと書くはずがないから、これもAが「智惠子抄」を編集著作したことの一つの証左である。
(六) Aは、被告にあてた昭和一八年八月一〇日の書簡の中で、「智惠子抄」第一〇刷の受領を通知し、「貴下の出版良識はまことに珍重すべきもので此書が貴下のやうな出版者の手によつて刊行された事を今更のやうに仕合せであつたと痛感します。」と記しており、これによるとAが被告を出版者としてしか取扱つていなかつたことが明らかである。
(七) 「智惠子抄」の刊行に先立つて昭和一五年一一月刊行された「道程」(改訂版)の場合、Aは、書簡でこれに言及するときには、必ずEの編集であるとか、
友人が編集してくれたものであるとかことわつている。これに反し、「智惠子抄」に言及した書簡においては、被告が編集したとか編集に協力したというような趣旨は全く述べられていない。このことも、Aが、被告を単なる出版者としか見ていなかつたことを示すものである。
(八) 訴外Kは、明治三三年以来、多年にわたるAの親友であつたが、「智惠子抄」について、「A君が、先年亡くなられた夫人Bさんに對して編まれた詩と追懐の文章との集。これはA君がBさんを知つて以来、永年の間に渉つて書かれた作品を、その中の數篇を省いて、時を追つて編まれたものである。」と記し、二回にわたつてA自身が編集したことを強調している。このことは、「智惠子抄」の編集はAが行つたものであるということがAの友人間の常識であつたことを示している。
(九)(1) 昭和二二年一一月二五日白玉書房から出版された「智惠子抄」(以下、「白玉書房版「智惠子抄」」という。)の「記」で、Aは、「亡妻Bに關する私の三十餘間の詩歌を集めて一冊にまとめ「智惠子抄」と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人D氏であつた。」と記しており、これは被告が編集したことを裏付けるかのようにも読める唯一の文章である。
しかし、この文章は、その前半部分を「三十餘間の詩歌を集めて一冊にまとめ、
「智惠子抄」と名づけたのが被告である」と解する限り全く客観的な事実に反している。すなわち、
イ 「智惠子抄」と名付けたのがA自身であることは、被告から訴外Lにあてた昭和一六年六月二二日付けの手紙に、Aが被告に「智惠子抄」の題名を手紙で知らせてくれた旨記載されていることにより明らかである。
ロ 三十余年間の詩歌といつても、少なくとも「短歌」を集めることに被告は何の寄与もしていない。
ハ 詩作品についても、被告がその第一次案の「内容順序表」に示したのは、Aの作品のごく一部であり、しかも極めて粗雑、安易に集めたものである。作品の収集、取捨選択をA自身が行つたことは前述のとおりである。
それゆえ、この文章を根拠として被告が「智惠子抄」を編集したと認定することは許されない。
(2) Aは、Bに関する戦後の作品である「松庵寺」、「報告」の二編を白玉書房版「智惠子抄」に加えている。更に、Aは、「智惠子抄」がそれ以上の補足を許さないような詩集とは考えていなかつた。むしろその後の作品を逐次追加していくことによりもつと完全な詩集にすべきものと考えていた。白玉書房版「智惠子抄」で二編を追加したのもこの趣旨によると考えられる。また、Aは、「智惠子抄その後」に収められた六編も「智惠子抄」に追補するつもりであつた。もし、「智惠子抄」が被告の編集にかかるものであるとAが理解し認識していたならば、被告にことわりなしに、勝手にこうした作品を加えたり、加えようとすることはありえなかつたはずである。それゆえ、この事実も、「智惠子抄」を編集したのがA自身であることを示している。
(3) 白玉書房版「智恵子抄」の「記」は、被告が「智惠子抄」を企画し、出版したことに対する謝意を表明したものであるにすぎず、これをもつて、被告が「智惠子抄」を編集したことの根拠とすることはできない。
(一〇) 被告は、「智惠子抄」について、Aに印税を支払わず、被告の都合の良い時期に、都合の良い金額を支払うといういわゆる「お礼制度」をとつていた。この結果、徒手空拳で出版業を始めた被告が、昭和一八年には熱海に別荘を設け、終戦間近い企業整備の際には、実に七〇万円の財産を形成することができたのである。このような被告にとつて一方的に都合の良い制度で済んでいたのは、Aの被告に対する好意の所為であり、またAの金銭を口にすることを卑しむ気質の所為であつた。したがつて、このお礼制度をもつて、被告が「智惠子抄」を編集したことの根拠とすることはできないし、また、「智惠子抄」の企画と出版に関する被告の貢献については、既に十分すぎるほど報われているものである。
以上のとおりの各事実からみても、「智惠子抄」がA自身により編集著作されたことは明らかである。
6 被告は、昭和四〇年六月一四日付け文部省第八四一〇号をもつて、「智恵子抄」につき、被告が昭和一六年八月一日に著作した旨の著作年月日登録(以下、
「本件登録」という。)をした。
7 引受参加人は、「智惠子抄」を出版発行している。
8(一) 原告は、Aから「智惠子抄」の編集著作権及び「智惠子抄」を構成する詩歌の著作権を、亡M(以下、「亡M」という。)及び亡Nを経て相続により取得した。
(二) 著作年月日登録は、表面上著作年月日だけを公示しているかのごとくにみえるが、その実態は、登録名義人が著作者であることを公示するものであり、かつ、旧法35条5項によりこれに著作年月日推定の効果を与えているから、正当な著作権者は、不動産につき誤つた保存登記がされた場合と同様に、誤つた登録の抹消登録手続を求めることができる。
(三) 詩歌等を集めた編集著作物につき、編集著作権を有しないものが著作年月日登録をしている場合には、詩歌等の原著作権者は、その著作権に基づき、当該著作年月日登録の抹消登録手続を求める権利を有する。これは、あたかも不動産の所有権者が、不法に登記された地上権や賃借権の登記の抹消登記手続を求めることができることと同様であり、かかる登録により原著作権の円滑な行使が妨げられるおそれがある以上、原著作権者は当該著作年月日登録の抹消登録手続を求めることができる。
9(一) 以上の次第で、原告は、被告に対し、
(1) 第一次的に、「智惠子抄」の編集著作権に基づき、
(2) 第二次的に、「智惠子抄」を構成する各詩、短歌及び散文の著作権に基づき、
本件登録の抹消登録手続を求める。
(二) 原告は、引受参加人に対し、
(1) 第一次的に、「智惠子抄」の編集著作権に基づき、
(2) 第二次的に、「智惠子抄」を構成する各詩、短歌及び散文の著作権に基づき、
「智惠子抄」の出版発行の差止めを求める。
二 本訴請求の原因に対する被告及び引受参加人の認否並びに被告及び引受参加人の主張1 本訴請求の原因1及び2はいずれも認める。
2(一) 同3冒頭の部分は否認する。
(二) 同3(一)は認める。ただし、Aが昭和一四、五年ころ、わが国における代表的詩人の一人として高い評価を受けていたのは、専門の詩人の間においてのみであつた。
(三)(1) 同3(二)(1)は認める。
(2) 同3(二)(2)のうち、被告がBに関する詩文を集めて一冊の本を出版する企画を立てた当時、原告主張の各作品をBに関する作品であると考えたことは認め、その余は否認する。
被告は、当時、「道程」中に収録されていた「あをい雨」、「梟の族」及び「冬が来る」の各作品もBに関するものではないかと考えていた。
(3) 同3(二)(3)は認める。ただし、「内容順序表」及び第一次案の配列は、別紙第二表被告D原案欄に記載されたものが正確である。
被告がAに交付した第一次案は、それまで誰も予想しなかつた「AB的男女関係」を浮き彫りにし、一つの新しい愛の世界を構成、出現させたものであつて、それ自体一個の編集物であつた。
(四)(1) 同3(三)(1)のうち、Aが昭和一六年六月一一日ころ「荒涼たる帰宅」を制作したこと、Aが、被告に、「智惠子抄」の出版を許諾したこと、Aが被告に対し、以前預かつた内容順序表及びすべての資料を返還したことは認め、
その余は否認する。
Aは、被告に対し、右資料等を返還した際、「夜の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「人生遠視」、「風にのる智惠子」、「荒涼たる歸宅」の五編の詩並びに「うた六首」の各自筆原稿及び「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」の詩が掲載された雑誌の切抜を手渡した。また、「荒涼たる歸宅」の詩は、「智惠子抄」以外の出版物に掲載することを予定していたと推測され、この詩の制作が「智惠子抄」編集の契機となつたということはできない。
(2)イ 同3(三)(2)のうち、第一次案に収録されていた「婚姻の榮誦」、
「人に(遊びじゃない)」、「淫心」の三編の詩及び第一次案に収録されていなかつた「涙」、「からくりうた」、「梟の族」、「金」の四編の詩並びに「新茶の幻想」、「某月某日」の二編の散文が「智惠子抄」に収録されなかつたこと、第一次案に収録されていなかつた「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡すもの」、「人生遠視」の四編の詩、「うた六首」及び散文「九十九里濱の初夏」がそれぞれ「智惠子抄」に収録されたこと、Aが新たに詩「荒涼たる歸宅」を制作し、
これが「智惠子抄」に収録されたこと、Aが「智惠子抄」に収録された詩及び散文のうち、「道程」に収録されていた一一編の詩を除いて、その制作年代を確定したこと、Aが「智惠子抄」に収録されていた作品について推こうを行つたことがあることはいずれも認め、その余は否認する。
ロ 以下の事実に照らし、当時Aが自己の作品について、すべての資料を完全に保存していたとは認め難い。
@ Aが生前保存していた詩稿を収録した訴外O編「高村光太郎全詩稿」には、
「道程」に収録された詩及び「涙」、「からくりうた」など大正四年以前に制作された詩の詩稿が含まれておらず、この事実は、当時Aがこれらの詩稿を持つていなかつたことを推測させる。また、Aが「道程」を持つていなかつたことも明らかである。
A E編集の「道程」(改訂版)中に収められた「編纂者の言葉」には、この「道程」(改訂版)が出版された昭和一五年一一月当時、資料不足から一〇編もの詩の制作年月日が不明となつたと記されている。また、実際にも、「道程」中に収録されていた二編の詩を含む九編の詩の制作年月日が不明とされ、他に九編の詩について制作年月のみが記載された形になつている。「道程」(改訂版)は、Aがその編集上の注意を与え、かつ、これに収められた「ラコツテイマーチ」及び「龍」についての制作年月日を教示したと思われるものであるから、このように多数の詩の制作年月日が不明とされているのは、A自身が、これらの詩の資料を所持していなかつたことを推測させる。
B 「A全詩稿」を検討すると、これに収められた各詩稿には、時期を違えて制作年月日が記入された痕跡があり、Aが、詩の制作時期とは別の時期に詩稿の整理をしていることが窺われる。このことは、Aの訴外Pあて昭和一六年九月一八日付け葉書に、「今夏はひどく健康を害し、殆と何も出来ず、わづかに舊稿整理などで過ごしてしまひました。」と書いてあることによつても裏付けられる。
以上の事実からすると、「智惠子抄」が編集された当時、Aが、自己の作品について、すべての資料を完全に保存していたとは認め難い。したがつて、AがBに関する作品の資料をすべて保存していたことを前提とする原告の主張は誤りである。
ハ 「涙」、「からくりうた」の二編の詩は、「道程」、「道程」(改訂版)、右以前に刊行されたその他の全集にも収録されておらず、当時Aが右二編の詩について資料を所持していたと考えることはできない。したがつて、Aが、「智惠子抄」の制作にあたり、右二編の詩の取捨を検討したということはあり得ない。
ニ 「婚姻の榮誦」については、被告が、Aから、後記の第二次案の返還を受けた際、Aから削除してほしいと希望され、やむなくこれに応じて、被告が削除した。
Aが右詩の削除を希望した理由は不明であるが、少なくとも、これが、A及びBに関係する詩でないから削除を希望したということでないことは明らかである。
ホ Aが「梟の族」及び「金」の二編の詩を検討して意識的に採用しないことにしたとする具体的証拠は存在しない。特に、「金」についていえば、「道程」(改訂版)にもその他Aの生前に出版された全集にも一切掲載されなかつたものであるから、Aがこの取捨を意識的に検討したというのは甚だ疑問である。
ヘ 「淫心」は、Aが、被告に第二次案を返還する際に削除を希望したので、被告において、これを削除した。Aが削除を希望した理由は、時局柄「誤解を蒙ることを慮つ」たことによるものと思われる。
「人に(遊びじゃない)」は、その理由は不明であるが、Aが削除を希望したので、被告がこれに応じて削除した。
ト 「狂奔する牛」、「鯰」の二編の詩及び散文「九十九里濱の初夏」は、被告がAから第一次案及びその資料の返還を受けた後、自ら発案して「智惠子抄」に収録することとし、これを第二次案に入れてAに交付し、その了承を得たものである。
右二編の詩は、「智惠子抄」の出版直前に出版された「道程」(改訂版)に収録されていたものであるが、Aは、ある詩集に収録された詩を他の詩集に同時に収録することを嫌う人であつたから、右二編の詩を積極的に「智惠子抄」に収録するよう求めたとするのは不自然である。現に、被告が正確な詩稿を書いてくれるよう依頼していた「樹下の二人」については、これが「道程」(改訂版)に収録されていたため、同書に収録されていなかつた「あなたはだんだんきれいになる」と異なり、その詩稿を被告に交付しなかつた。
チ Aが「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」、「人生遠視」、
「荒涼たる歸宅」の五編の詩及び「うた六首」の原稿等を提供したのは、被告がそれらの作品を知らなかつたため、被告の求めに応じて、「智惠子抄」の素材として提供したものである。したがつて、これをAが「智惠子抄」を編集したことに関する根拠とすることはできない。
リ AがBに関する作品の資料をすべて所持していたということは疑わしい。
Aは、詩集に収録する詩については、制作年代順に配列するのが通例であるが、
「智惠子抄」にあつては、後に制作された「荒涼たる歸宅」が「梅酒」の前にきており、その順序が逆転していることからも分かるように、詩がその内容に従つて配列されているのであつて、配列の決定をAが行つたとすることは不自然である。Aは、第一次案の返還時、「夜の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「人生遠視」、「風にのる智惠子」、「荒涼たる歸宅」の自筆原稿及び「同棲同類」、
「美の監禁に手渡す者」が掲載された雑誌の切抜きを交付したが、これらに編綴された痕跡がないことも、Aが配列を決定したのではないことを裏付けている。
Aは、第一次案の返還時、右自筆原稿等の末尾欄外に制作年月日を赤字で書き入れてその制作年月日を被告に教示し、更に第二次案の返還時に、「千鳥と遊ぶ智惠子」など七編の詩及び散文三編の制作年月日ないし制作年月を教示した。これは、
被告がAに、制作年月日を教えてほしいと依頼していたのに応じたものである。被告は、これらの詩について、Aから制作年月日を教示されなくとも、第二次案のように配列することが可能であつたもので、現に「千鳥と遊ぶ智惠子」など七編の詩及び三編の散文の制作年月日ないし制作年月の教示を受ける前に、第二次案の配列を決定していた。Aが右のように詩及び散文の制作年月日を教示したことは、被告が「目次並作品年表」を作成するために役に立つたという以上の意味はなく、Aが「智惠子抄」の配列を決定したことを示すものではない。
Aが「目次並作品年表」又はその原案を作成し、被告に交付したとするのは、わざわざAが右自筆原稿等にその制作年月日を赤鉛筆で記入していることに照らし不合理である。また、「目次並作品年表」について、「道程」から収録された詩の制作年月のみが記載されていることは、これが被告の交付した「内容順序表」に基づいて作成されたと考えない限り不自然であるから、これはAが「目次並作品年表」を作成したのではないことを裏付けるものである。
ヌ Aは、「智惠子抄」を構成する作品について、「詩文加筆変更一覧表」のとおり推こうしている。しかし、これは、殆ど漢字を仮名に直すなどの字面の変更にとどまつており、格別の思索と作業及びさほどの時間を要するものではなかつた。また、Aが、他人によつて編集されたAの詩集中の作品について推こうを加えた例もある。したがつて、Aにより右のような推こうが行われたことをもつて、「智惠子抄」がAの手によつて編集著作されたことの裏付けとすることはできない。
ル 題名を「智惠子抄」に決めたのは被告である。すなわち、被告は、昭和一六年六、七月ころ、Aから第一次案の返還を受けた際、「題はどうする」と聞かれ、
「詩集「智惠子」ならどうでしよう」と答えたところ、Aから「抄」を入れたらどうだろうかと提案された。被告は、Aの提案を入れて題名を「智惠子抄」に決定した。Aから被告あてに、題名を「智惠子抄」とする旨の葉書が出されたのは、右のような経過で題名を「智惠子抄」にすることが決められた後のことであり、被告が題名を決めたとすることと矛盾するものではない。被告が、題名を決定したことは、Aの「「智惠子抄」と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、
龍星閣主人D氏であつた。」という白玉書房版「智惠子抄」の「記」の文章により明らかである。更に、Aの実弟である亡Mは、「智惠子抄」の題名を「露骨」と感じ、Aがこの題名をはにかんでいたと推測しており、Aがこのような題名を決めたとするのは不自然である。
オ 作品の取捨選択に関するAの行為は、被告が独自の構想のもとに詩編を配列構成して作つた一個の編集物である第一次案をAに示して許諾を求めた後に行われたものにすぎず、A自らがこの取捨選択によつて詩集全体をまとめ上げたものではないし、また、被告がAに呈示した編集物と同人が作品の取捨選択を行つた後の詩集とを比較すると、Aの行為によつて被告の編集物についての創作性が根本的に改変されたとは認められないことが明らかである。Aは、詩集の編集につき許諾の有無の権利を有する原著作者として当然なし得ることを行つたにとどまるから、Aの行為をもつて、被告の編集著作権取得を否定する根拠とすることはできない。
3(一)(1) 同4(一)は争う。
(2) 「智惠子抄」の編集当時、Aの読者の中にBに関するAの作品を一まとめにして考えるという着想を持つていた者がいたとは信じ難い。被告は、それまで誰も予想しなかつた「AB的男女関係」を浮き彫りにし、ひとつの新しい愛の世界を構成、出現させるという独創的な見識をもつて第一次案ないし「智惠子抄」をまとめ上げたものである。
(3) 「樹下の二人」、「狂奔する牛」、「鯰」、「夜の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」及び「同棲同類」の各詩は、被告が出版の仕事に携わる以前、すなわち被告がBのことを知らない時期に出版された全集等に収録されたものであつたから、これらの刊行物に被告が注意を払わなかつたとしても不思議ではない。また、「婚姻の栄誦」がBと無関係な作品であるという資料はない。
(4) 被告は、Bの生涯を浮き彫りにし、AとBの受の世界を表現する目的で、
各詩の内容感によつて第一次案の配列を決定したものであるから、配列について一貫した方針がなかつたということはできない。
(5) 「道程」から収録された一四編の詩について、内容順序表にその年月のみが記載されているのは、「風にのる智惠子」以下の雑誌に発表された詩文について、発表年月のみを記載したのと整合させるためであつた。
(二) 同4(二)は争う。被告は、第一次案の編集著作権を主張しているのではない。第一次案は、最終的に「智惠子抄」の形に変形されたが、その創作性が根本的に改変されたものではない。
4(一) 同5冒頭の事実は争う。
(二) 同5(一)のうち、原告主張の図書にその旨の記載があることは認め、その余は否認する。
「光太郎智惠子」の「編集者附記」で明らかにされているのは、Aが原著作者として自己の意にそわないナマと思われる若干の作品を編集物に収録することを拒否したということであり、そのような内容の取捨を行つたということにすぎない。かえつて、右「編集者附記」は、「被告が編集構成したもの」についてその編集構成の意義を根本的に改変するような「取捨選択」をAが行わなかつたことを明らかにしている。
(三) 同5(二)のうち、原告主張の図書にその旨の記載があることは認め、その余は否認する。
「智惠子抄」のしおりでは、被告が、「一切の資料をまとめあげて本になるばかりにしてAのところへもつていつた。」という事実とそれを基本にしてAの手が加えられたという事実が明らかにされているにすぎないし、更に、そこにはAが当時から被告に対し、「君が発見し、君が作つた本だから君のものだ。」と述べていた事実が明らかにされているのであり、これらの事実を合わせ考えれば、原告の引用する「『こつぱは突つこむな』といいながら惜し気もなく捨てるものは捨ててしまつた」という文章が、「智惠子抄」創作の根本的意義がAによつて決定されたことを示すものでないことは明らかである。
(四) 同5(三)のうち、原告主張の図書にその旨の記載があることは認め、その余は否認する。
Aが記した詩集「記録」の序文冒頭の「又この詩集を編んだ。」という表現は、
Aが同詩集編集の前に自ら編集して発表した、昭和一七年四月二〇日初版発行「大いなる日に」及び昭和一八年一一月三日初版発行「をじさんの詩」の二冊の詩集に続いてまたこれを編集したという経過を表現したものにすぎず、「智惠子抄」の編集とは関係がない。事実、Aは、右文章に続けて、「前著『大いなる日に』其他に編入せられてゐるものは重複を避けてこの集にゐれなかつた。」と書いて、この序を書く意識の前提に前著「大いなる日に」があつたことを明らかにしている。
(五) 同5(四)のうち、「智惠子抄」には初版以来Aの死に至るまで、常に、
「著者A、発行者D」とのみ記載されていたことは認め、その余は争う。
「智惠子抄」に編集者として被告の名前が表示されていなかつたのは、被告において当時その必要を感じなかつたからであり、被告は、昭和四〇年までは、被告の編集によつて刊行した書物、例えば「智惠子抄その後」、「光太郎智惠子」などにも「智惠子抄」と同様、収録作品の原著作者名のみを表示するにとどめ、編集者として被告の名を表示することはしていなかつた。
また、Aは、A以外の者が編集著作した作品であつても、常に必ず編集者の名前を表紙や奥付に表示させていたわけではなかつた。このことは、F編集の創元社刊「高村光太郎詩集」、訴外I編集の岩波書店刊文庫版「高村光太郎詩集」などに、
Fらが編集ないし編集著作したことを窺わせる記載がないことからも明らかである。
逆に、Aは、白玉書房版「智惠子抄」の「記」において、「亡妻Bに関する私の三十餘年間の詩歌を集めて一冊にまとめ「智惠子抄」と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人D氏であつた。」と記し、「智惠子抄」が被告の編集によつたものであることをA自身が明示している。
したがつて、「智惠子抄」に編集者として被告の名前が表示されていないからといつて、そのことを被告が「智惠子抄」を編集しなかつたことの根拠にすることはできない。
(六) 同5(五)のうち、Aが、訴外Jにあてた、昭和一六年九月の書簡の中で、「智惠子抄」について、「古い詩が多いので、少々面ぶせな気がしましたが、
自分が書いたものである以上是非もないので、そのまま集めました。」と書いていることは認め、その余は争う。
この文章を素直に読めば、「『智惠子抄』に収録された詩は古いので少し照れくさいところもあるけれども、しかし自分の作つたものなんだから、いいも悪いもなく今の時点で改作をしないままにした。」ということを伝えようとしたもので、自分が「集めた」ということを伝えようとした文章でないことは明らかである。
(七) 同5(六)のうち、Aが、被告にあてた、昭和一八年八月一〇日の書簡の中で、「智惠子抄」第一〇刷の受領を通知し、「貴下の出版良識はまことに珍重すべきものでこの書が貴下のやうな出版者の手によつて刊行されたことを今更のやうに仕合せであつたと痛感します。」と記していることは認め、その余は否認する。
被告は、「智惠子抄」の編集者であると同時に出版者でもあつたから、Aが右のような文章を書くことも不思議ではない。
(八) 同5(七)は否認する。
(九) 同5(八)のうち、訴外Kが、「智惠子抄」について、原告主張の文章を書いていることは認め、その余は否認する。
この文章は、「智惠子抄」の内容を紹介したもので、「智惠子抄」を誰が編集したかということには力点がなく、かつ、これが「智惠子抄」の具体的編集経過をどの程度認識して書かれたのか不明である。したがつて、この文章から「智惠子抄」の編集者を推認することはできない。
(一〇) 同5(九)のうち、白玉書房版「智惠子抄」の「記」で、Aが、「亡妻Bに關する私の三十餘年間の詩歌を集めて一冊にまとめ、「智惠子抄」と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人D氏であつた。」と記していること、Aが、Bに関する戦後の作品である「松庵寺」、「報告」の二編を白玉書房版「智惠子抄」に加えていることは認め、その余は否認する。
右「記」の文章は何ら事実に反するものではない。すなわち、「智惠子抄」の題名を決めたのは前記二2(四)(2)ルのとおり被告であり、被告は、「智惠子抄」の題名をAが決めたと自認したことはない。また、「うた六首」をまとめたのはAであつても、それを他の詩編の中に工夫して配置したのは被告であるから、Aが、「詩歌をまとめ」たのが「龍星閣主人D氏であつた。」と記したのは当然である。
Aは、白玉書房版「智惠子抄」に「松庵寺」、「報告」の二編の詩を加えた当時、編集著作権についての正確な法的知識を有し、詩歌の原著作者といえども他人の編集著作物を無断で改変することができないとまで考えていたかどうかは甚だ疑問である。むしろAが白玉書房版「智惠子抄」に「松庵寺」、「報告」の二編の詩を加えたのは、原著作者としてそうすることに格別疑問を抱かなかつたからであると考えるのが自然である。また、Aが右二編の詩を白玉書房版「智惠子抄」に加えたのは、同書の編集者である訴外Q(以下、「Q」という。)に慫慂されたからにすぎず、Aが、次々とBの詩を作り、これを「智惠子抄」の中に加えていくという計画を有していたことを窺わせる資料はない。なお、被告は、昭和二六年二月に「智惠子抄」を自ら出版した際、Aに申入れてその了解を得たうえ、右二編の詩を削除している。
右「記」の文章は、具体的、かつ、直截であり、リツプサービス特有のあいまいさが微塵もないものであり、Aが自己の言葉に厳しく責任を取る芸術家であることからすると、その文言どおり、被告が「智惠子抄」を編集したことを明らかにしているものであり、これをもつて、Aが被告に謝意を示したにとどまるとすることはできない。
(一一) 同5(一〇)のうち、被告が、「智惠子抄」について、Aに印税を支払わず、いわゆる「お礼制度」をとつていたことは認め、その余は否認する。
「智惠子抄」について「お礼制度」が取られていたことは、「智惠子抄」が被告の編集にかかることを推認させるものである。
5 同6、7は認める。
6 同8のうち、(一)は知らず、その余は争う。
旧法15条3項の著作年月日登録は、同法35条5項によつてその著作年月日が推定されるという効果を有するにとどまり、著作者を公示するものでもなければ、
著作者を法律上推定させる効果を有するものでもない。また、仮に「智惠子抄」の編集著作権が原告にあるとしても、右著作年月日登録の抹消登録手続の請求は著作者のみがすることができるものであるから、権利の承継人たる原告はこれをすることができない。
三 被告及び引受参加人の本訴抗弁並びに被告の反訴請求の原因(以下、「抗弁等」という。)1 本訴請求の原因1及び2と同じ。
2(一) 被告は、Aの許諾を得て、昭和一五年九月ころから昭和一六年八月ころまでに、以下のとおり、「智惠子抄」を編集著作した。
(1) Aは、昭和一四、五年ころには、わが国における代表的詩人の一人として専門の詩人の間では高く評価されていたものの、必ずしも世間的な意味で評判の高い詩人ではなく、大正三年に唯一の個人詩集である「道程」が刊行された後は、長い間第二番目の詩集を出す出版者もなかつた。
(2) 被告は、少年時代から文学を愛好していたが、大正一四、五年ころから詩と版画の雑誌「港」、「風」を自ら編集するとともに、同人の訴外R、同Sらに互して同誌上に自作の詩文を発表し、仲間からも、「立派に彼自身の世界を持つ火のごときロマンチスト」と評されていた。
被告は、前記のような創作活動を続けるうちに、自分より優れたものを世に送る方が自作の詩文を発表するよりも生きがいがあると思うようになり、誰も出さないような埋もれている感じのもの、余り有名でなく隠れているものを掘り出して自分の意思表示にしようと考え、昭和八年ころ、龍星閣の名称で出版業を開始した。
被告は、前記の「港」、「風」を編集していた当時から、Aが翻訳した「ロダンの言葉」に感銘を受け、Aに対し、「ヒユーマニストとして尊敬の念」を抱いていたものの、昭和一〇年ころまでは、Aの詩業全般については必ずしも積極的な評価をしていなかつた。ところが被告は、雑誌「書窓」に掲載された「風にのる智惠子」を読んで感動を覚え、それをきつかけとして改めて手元にあつた「道程」を読み返したところ、そこに収録されている各詩が一〇数年前に読んだのとは全然形相を変えて感じられ、以後大変な注意をしてAの詩を見るようになつた。
被告は、昭和一〇年以後、目に触れたAの詩文を掲載した新聞や雑誌を手元に集めて保存するようになり、昭和一四、五年ころにはその詩文の数が二、三〇編にも達した。被告は、当時、詩人としてのAは、埋もれている感じであり、詩集も個人詩集としては「道程」以来二〇数年間発行されておらず、まとまつた形では人の目に触れない状態であつたので、「風にのる智惠子」のような感動的な詩を含むAの第二詩集を刊行することは、「埋もれたものを世に送つて自分の意思表示にしよう」という被告の出版活動の根本方針にかなうと考え、昭和一四年三月ころ、Aに対し、同人の詩集を出版したいと申入れた。
Aは、右申入れを、さして明確な理由を示さずに承諾しなかつた。しかし、被告は、それ以後も第二詩集刊行の許可を得ようとしばしばA宅を訪れた。
(3) 被告は、「風にのる智惠子」以後数年の間に雑誌に断続的に掲載された「千鳥と遊ぶ智惠子」、「値ひがたき智惠子」、「山麓の二人」、「或る日の記」、「レモン哀歌」、「亡き人に」などのBに関する詩を読み進むうちに、それまで「道程」を読み直して新しい目で見るようになつていた詩と合わせて、Bに関する長編詩集ができると感じ、昭和一四年九月ころ、すなわち「亡き人に」の詩が雑誌「新女苑」に発表された直後ころ、Aに「B夫人のものを集めて一冊にしたらいかがでしよう」と申出たが、にべもなく拒絶された。被告は、その後もAに対し、Bに関する詩集の刊行の承諾を再三求めたが、Aの受入れるところとならないでいた。
(4) やがて、被告は、Aが、自分の申入れを、単に手向け草的に書かれたようなものだけを集めて一冊にすることを求めたものと考え違いしているらしいことに気付き、純粋な夫婦の一大長編詩集を編もうという自分の考えを理解してもらい、
できている感じのものを出させて貰うつもりで、「梅酒」の詩が発表された昭和一五年五月ころから散文「智惠子の半生」が発表された同年一二月上旬ころまでの間に、Aの詩を、別紙第二表中の「被告D原案」欄に表示されたとおりに配列し、これに「智惠子の半生」及び「智惠子の切抜繪」の二編の散文を巻末に加えた第一次案をまとめた。
被告が第一次案をまとめた経過は次のとおりである。
イ 被告の第一次案についての構想は、Aがそのときそのときに自分の不可避的な感情を吐き出して、うかつに放置しているもの、Aが愛される人間像として書いたものを最初から系統的に集め、Bの生涯を浮き彫りにし、日本にはまだない一大長編詩集を作ろうというものであつた。
ロ 被告は、第一次案をまとめるに当たつて、別紙第二表中の「被告D原案」欄記載の詩文全部がBに関するものであると判断していた。このほか、被告は、「道程」中に収録されていた「あをい雨」、「梟の族」などもBに関する作品ではないかと考えていた。
ハ 被告は、前記のBの生涯を浮き彫りにするという構想に沿い、「道程」と重複することをいとわず、「道程」中のBに関する詩を採録することとした。ただし、
被告は、前記各詩文のうち「あをい雨」は、Bに出会つたころのAの気持と環境を書いた詩であるが、これを冒頭にすえると書物として入りにくくなるので採用を断念し、「梟の族」も直接法的な一つのまとまつた長編詩に入れるには横道にそれると判断してこれを第一次案に収録しないこととした。
被告が、「道程」から「婚姻の榮誦」の詩を第一次案に収録したのは、それがAとBの結婚をことほぐ詩であると判断したからである。被告は、「或る日の記」が時代相を表しているもので、採用に値すると判断し、また、「智惠子の半生」が、
一般読者にとつて二人の関係が分かりやすくなり、詩の理解を深めるための解説の役割を果たすので、長編詩の後ろにつけるのがふさわしいと判断し、それぞれ第一次案に収録した。
ニ 被告は、詩の配列順序を、編集上から見た「内容感」、すなわち、Bの生活歴に沿つた事実の順ではなく、Bの生涯をたどつて行ける「伝記」になるような観点に基づき、各詩の内容から受ける第一次感を基本とし、各詩の制作年月日をも考慮に入れて配列した。被告は、具体的には、「道程」から採録した詩は同詩集中に表示されている制作年代順に(ただし、「おそれ」の詩については制作年月日の記載が欠けているが、前後の詩の制作年月日の記載や、この詩の表現から、これが大正一年八月ころの作品であると推測した。)、「風にのる智惠子」から「梅酒」までの各詩は雑誌に発表された順に、散文「智惠子の半生」中に引用されていた「樹下の二人」、「あどけない話」、「あなたはだんだんきれいになる」の三編の詩は「道程」以後で、しかも、「風にのる智惠子」以前に作られたことが詩の内容や「智惠子の半生」の文章から理解できたので両者の間に位置させることとし、かつ、この三編の詩は「智惠子の半生」に出てくる順番に配列を決定した。散文「智惠子の半生」は、前記のように解説的に詩の後ろに配するのが最適と判断されたので「智惠子の切抜繪」とともに巻末に配列した。
ホ 被告は、第一次案について、右の配列順に従い、番号を付して各詩文の題名を並べ、その最下欄に年月を記載した内容順序表を作成した(ただし、「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の三編については年月の記載はない。)。なお、被告は、「風にのる智惠子」以下の雑誌に発表された詩文について、同表に発表年月のみを記載したのに整合させるため、「道程」から採録する詩についても制作年月のみを記載するにとどめた。
(5) 被告は、昭和一五年一二月ころイ 採録する詩が掲載された各頁に付せんを挾んだ「道程」の本ロ 「風にのる智惠子」が掲載された雑誌「書窓」ハ 「千鳥と遊ぶ智惠子」以下「梅酒」までの各詩及び「智惠子の半生」、「智惠子の切抜繪」の二編の散文が掲載された雑誌の切抜を内容順序表どおりに編綴した第一次案をAの下へ持参し、Aに対し、「こういう本を出させていただきたい。」といつて内容順序表とともに交付した。その際被告は、Aに対し、「まだお手元にあるのは私に下さい。」と述べるとともに、第一次案中の「風にのる智惠子」以下の雑誌に発表された詩文と散文「智惠子の半生」に引用されている「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の三編の詩についてその制作年月日を、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の二編の詩について正確な詩稿をそれぞれ教えて欲しいと依頼した。
(6) Aは、被告から右申入れを受けたものの、「預かつておきましよう。」と言つて第一次案を受取つたにとどまつた。
この際、Aは、第一次案中に「道程」から多数の詩が採録されていることに意外の感を示した。これは、Aが、ある詩集に収録された詩を他の詩集に同時に収録することを嫌い、かつ、いろいろ構成に工夫を凝らして詩集をまとめあげるということを好まない人物であつたので、Bの生涯を浮き彫りにし、AとBの愛の世界を表現しようとしている第一次案の呈示を受けた当座においては、刊行がためらわれたためである。
(7) Aは、被告から新詩集刊行の許諾を再三求められたが、容易にこれに応じなかつた。しかし、Aは、被告から百の言葉で説得された結果、昭和一六年七月ころ、被告に対し、被告が構想し呈示した新詩集刊行の許諾を与えた。
Aは、右許諾を与えた際、被告に対し、預かつていた第一次案を返還するとともに、末尾欄外に赤鉛筆で制作年月日が記載された「夜の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「人生遠視」、「風にのる智惠子」、「荒涼たる歸宅」の四編の詩及び「うた六首」の自筆原稿、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」の各詩を掲載した印刷物を編綴しないままの状態で交付した。また、Aは、第一次案の詩「|に」の題を「人に」(いやなんです)と改め、同案の九番目に配列されていた「人に」(遊びじやない)の詩を削除するよう求めたが、各詩の配列については何らの指示もしなかつた。
Aが、自筆原稿と印刷物を交付したのは、第一次案を預かつた際、被告から、未知の詩編や正確な詩稿、制作年月日などを教えて欲しいと依頼されたのに応じたものである。
(8) 被告は、第一次案の返還を受けてから一週間ないし一〇日くらいの間に、
第一次案に補充、変更を加えた詩集の案(以下、「第二次案」という。)をまとめた。
第二次案の内容は、別紙第三表中、「被告Dが第二次に加えた作品(◎印)と採録個所並に編集順序」欄記載のとおりであつたが、被告がこれをまとめた経過は次のとおりであつた。
イ 被告が第一次案に収録した詩文は、Aが削除を求めた「人に」(遊びじやない)を除いて、すべて第二次案に収録した。
ロ Aから渡されて始めて知つた「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」の詩五編及び「うた六首」もすべて採録した。
ハ 被告は、そのころ雑誌「新若人」に掲載された散文「九十九里濱の初夏」を入手し、これを第二次案に採録した。
ニ 被告は、昭和一六年に入つてから入手した「道程」(改訂版)の中に、それまで知らなかつたBに関する二編の詩、すなわち「狂奔する牛」及び「鯰」があることを知り、これを採録した。
ホ 被告は、第一次案の返還を受けるときにAから手渡された七編の詩及び「うた六首」について、すでに第一次案において配列を決めていた「風にのる智惠子」を除く六編の詩の配列を検討し、その内容感から、「荒涼たる歸宅」を除いては、第一次案の詩の中に制作年代順に配列した。
その結果、「あなたはだんだんきれいになる」と「あどけない話」の二編の詩の順番が入れ替わつた。
ヘ 「道程」(改訂版)から新しく採録した「狂奔する牛」、「鯰」及びAから教えられて全文を知つた「樹下の二人」は、「道程」以後の詩であることとその内容感に基づき、いずれも「淫心」の直後に配置した。
ト 被告は、詩「荒涼たる歸宅」については、Bのなきがらの帰宅を歌つた内容なので、AがBを回想する詩である「亡き人に」と「梅酒」の二編の詩の前に配置するのが適当であると判断して、制作年代順の配列を崩し、「亡き人に」の前に配列した。また、被告は、「梅酒」が大変余韻のあるまとまつた詩で最後に置くのが相当であると考え、これを詩の最後に配列した。
以上の結果第二次案の配列は、別紙第三表の「被告Dが第二次に加えた作品(◎印)と採録個所並びに編集順序」欄記載のとおりになつた。
チ 被告は、Aから手渡された「うた六首」を、長歌に対する反歌にみたて、詩と散文の間に配列することとした。
(9) 被告は、第二次案をまとめてすぐ、Aに対し、
イ 「第一次案」において「道程」から採録することにした「人に」(いやなんです)から「晩餐」までの各詩及び「道程」(改訂版)から採録することにした「狂奔する牛」、「鯰」の各詩について、いずれも右各詩の収録された「道程」(改訂版)を破り取つたもの(ただし、「深夜の雪」、「淫心」は「道程」(改訂版)に収録されていなかつたので、被告が「道程」から筆写したもの。)ロ Aから交付された自筆原稿、印刷物及び第一次案の「風にのる智惠子」以下の詩については、全部被告が筆写したもの。
ハ 散文三編については集めた雑誌の切抜そのものをバラバラにならないように配列順に束ねて、Aの承諾があれば、割付けなどをして印刷に回せる程度にまでしたうえ、後で追加した作品を間に赤で書き入れた内容順序表とともに呈示した。
(10) Aは、第二次案を受領してから二、三日後、被告を呼出して第二次案を返還したが、その際、被告に対して、「淫心」、「婚姻の榮誦」の二編の詩の削除を希望し、かつ、被告の要望にこたえて、「千鳥と遊ぶ智惠子」以下「梅酒」までの詩についての制作年月日及び散文三編についての制作年月をそれぞれ表に書いて被告に渡したが、それ以外、第二次案の詩文の取捨、配列については何らの異論を述べなかつた。
(11) 被告は、Aから第二次案の返還を受けた後、第二次案から「淫心」、
「婚姻の榮誦」の二編の詩を削除して作成した次の案(以下、「第三次案」という。)及び各詩文の制作年月日に基づき作成した「目次並作品年表」を印刷に付し、ゲラにしてAの校閲を受けた。この第三次案の収録詩文及びその配列は、「智惠子抄」と同一である。Aは、第三次案に対し、詩集構成上の注文を何ら出さなかつた。
(12) Aは、詩文自体の原著作者として、「智惠子抄」が出版されるまで、原作品について種々の推こうを加えた。
(13) 被告は、昭和一六年六月、七月ころ、Aから第一次案と自筆原稿などを渡された際、「題はどうする。」と聞かれ、「詩集智惠子」と提案したところ、Aから「『抄』をいれたらどうだろう。」と言われ、これに感心して題名を「智惠子抄」と決定した。
(14) 「智惠子抄」の編集経過は以上のとおりである。右の編集経過からすると、詩文収録の方針を立てた者は被告であること、「智惠子抄」は、右の方針に基づき被告の作成した第一次案を骨格として作成されたこと、「智惠子抄」が完成するまでに取捨の対象とされた詩文等は、詩三二編、短歌六首、散文三編であり、このうち被告によつて詩二七編と三編の散文が、Aによつて詩五編と短歌六首が拾い出されたこと、この中から、「智惠子抄」に収録された詩の大部分を占める第二四編及び散文三編を被告が、残りの詩五編と短歌六首をAがそれぞれ第一次的に取捨したこと、Aが三編の詩の削除を求めたのは、詩のでき映えについての不満や時局に対する配慮から、原著作者として割愛を希望したにすぎないこと、したがつてAが詩五編と短歌六首を第一次的に取捨したことは単に原著作者の編集者への協力であつたこと、これに対し、被告の前記の詩文の取捨は編集行為としての「集める」ことに当たること、「智惠子抄」の詩文を配列したのも被告であることがそれぞれ明らかである。したがつて、「智惠子抄」を編集した者は被告である。
(二) 被告が「智惠子抄」を編集著作したことは、以下の事実からも明らかである。
(1) 被告は、大正一四、五年ころから「港」等の同人雑誌を主宰してこれに詩文を発表し、昭和八年以後は龍星閣を創設して出版活動を続けていたもので、「智惠子抄」以外にも、龍星閣発行の書物の編集をしており、「智惠子抄」を生み出すのにふさわしい独特の感覚と編集能力を有していた。
(2) Aは、白玉書房版「智惠子抄」の巻末に「記」と題する文章を書き、その冒頭で、「亡妻Bに關する私の三十餘年間の詩歌を集めて一冊にまとめ、『智惠子抄』と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人D氏であつた。」と記し、「智惠子抄」の編集が被告によつて行われたことを明らかにしている。当時被告は、出版事業を中断したままであり、Aもこれを知つていたから、
Aが被告の事業を顧慮する必要はなかつたし、被告に改めて謝意を表しなければならない理由もなかつた。したがつて、右文章の内容の真実性は確かである。
(3) Aは、昭和二五年一一月発行の「智惠子抄その後」の「あとがき」に、
「先年『智惠子抄』をはじめて世に送つてくれた龍星閣主人D君が、今度は又、
『智惠子抄その後』を略奪するような勢で出版する。」と記した。「智惠子抄その後」は、被告が編集著作したものである。したがつて、右「あとがき」の「先年『智惠子抄』をはじめて世に送つてくれた龍星閣主人D君が、今度は又、」という文章は、「龍星閣主人D君が『智惠子抄』の編集に続いて又、『智惠子抄その後』を編集した。」ということを表したものである。
(4) Aは、昭和一九年七月五日、「智惠子抄」がドイツ向けの放送をされることになつたのを機に、被告に対して、「貴下のおかげでBは日本中の女性に愛慕せられ、またAB的男女関係は多くの共感者を得ました。」との感謝の言葉を書き送り、また、白玉書房版「智惠子抄」の出版を計画したQに対しても、「『智惠子抄』の出版をDさんが貴下に譲られることを承諾せられたやうで、小生としては少しも異存ありません。『智惠子抄』はDさんの並々ならぬ熱意によつて世上にひろく紹介されたので小生Dさんにはひどく感謝してゐる次第です。」との手紙を書いている。Aが、「智惠子抄」及び「智惠子抄その後」を刊行した被告以外に、自己の著作物の出版に関して右のような並々ならぬ感謝の意を表明し続けた例は全く見当たらない。更に、Qあての手紙に表現されたAの感謝の気持ちは、Qによつて出版された白玉書房版「智惠子抄」の「……集めて一冊にまとめ、『智惠子抄』と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人D氏であつた。」という「記」の文章に結実していることに照らせば、Aの感謝の意が、被告による「智惠子抄」編集の事実に基礎を置くことが明らかである。
(5) Aは、昭和一六年九月一八日、知人の訴外Pあてのはがきに、「今夏はひどく健康を害し、殆と何も出来ず、わずかに舊稿整理などで過ごしてしまひました。」と書いている。Aは、この直前の昭和一六年八月二〇日に「智惠子抄」が出版されるという一大事があつたにもかかわらず、己の動静を伝えた右はがきで全くそのことに触れていない。このことは、Aが「智惠子抄」の編集に積極的にかかわらなかつたことを物語る。
(6) Aは、白玉書房版「智惠子抄」の場合を初めとして、第三者が「智惠子抄」を出版しようとした際には、以下のとおり必ず被告の意向を尊重し、これに従つていた。これらのことは、単に被告に対する営業上の配慮というAの恩恵的な気持ちだけからされたものでなく、Aをしてそうさせるにふさわしい背景が存在したからであり、被告の「智惠子抄」編集の事実を裏付けるものである。
イ Aは、被告が出版業を休業していた昭和二一年二月九日、Qあてに手紙を出し、その中で「『智惠子抄』重版のことは小生には依存ありませんが、これは龍星閣○○○○○氏(D氏の誤記)の意向次第です。」と書き、更に、昭和二一年一二月二六日、訴外Hあての手紙に「……◎出版について一まとめに覺書を左に書きます。……◎璞書房(Q氏)。……D氏が承諾すれば「智惠子抄」一冊。」と書いており、「智惠子抄」の出版について被告の意向に従う旨を表明していた。Aは、被告が休業中であることを知つていたから、被告に対して、営業上の配慮をする必要はなかつたのであり、右文章は、被告が「智惠子抄」を編集したことを示すものである。
ロ 昭和二六年九月一五日創元社発行のF編「創元選書高村光太郎詩集」には、収録詩が単に年代順に配列され、個々の詩集名下にはまとめられなかつた。これは、
被告がAに対し、「創元社、中央公論、両社の出版物編輯集に当つては、龍星閣版『智惠子抄』その他を収録させざること。」という「進言書」を手渡し、その旨をAから右両社及びFに申渡して欲しいと求めたのに応じ、AがFに対し、「『智惠子抄』。『智惠子抄その後』。……はいずれも採録せぬこと。……編纂は年代順(編年体)にして個々の詩集の題名の下に集めぬこと。」とのはがきを手渡した結果である。
ハ Aは、右ロと同じころ、中央公論社からAの選集の出版が企画された際、被告の申出に基づき、その編集に関係していたFに、被告の意見を尋ねるよう指示するとともに、同社に対しても、「智惠子抄」及び「智惠子抄その後」を採録しないように申渡した。
ニ Aは、角川書店が「高村光太郎・萩原朔太郎集」と題する詩集に「智惠子抄」及び「智惠子抄その後」の抜粋を収録しようとしたのに対し、被告の中止要求に応じて同書店に注意を与えた。この結果、同書店から昭和二八年一〇月一五日発行された「高村光太郎・萩原朔太郎集」の目次は、「智惠子抄より」及び「智惠子抄その後より」と表示された。
ホ 昭和三〇年三月五日創元社発行の「現代日本詩人全集第二巻」には、「智惠子抄」は収録されず、単に詩集の題名と編註として詩集の概要のみが掲載された。これは、被告が同社に厳重注意をし、次いでAが同社に「『智惠子抄』を入れぬこと」との注意をした結果である。
(7) 被告は、昭和二四年一二月二四日付けのAあての手紙で「智惠子抄その後」の編集の許可を求めたが、その中で、「『智惠子抄』は地獄と錬獄でありましたが、今度天国篇が出来上つたもので、之で私達の『神曲』が完成致しました。」と書いているが、これは、被告が「智惠子抄」を自分の作品でもあると考えており、それを収録詩文の作者であるAに対して主張していることを示している。これに対し、Aは、「先年『智惠子抄』をはじめて世に送つてくれた龍星閣主人D君」と書いた「あとがき」を贈つて「智惠子抄その後」の刊行に助力した。これは、Aが、右のような被告の態度を是認していたことを示すものであり、被告が「智惠子抄」を編集したことを裏付けるものである。
(8) 被告は、昭和二五年一〇月五日付けでAあてに手紙を出し、この中で、
「智惠子抄」について、「正当な場所に還して頂き、私が改装新版して出すのが本当と思います。」と書いている。これが「智惠子抄」が出版されてから一〇年も経過していない時期にAに対して述べられたことを考慮すると、被告が、「智惠子抄」を発行する正当な権利が自分にあり、Aもこれを理解すると確信していたことが分かる。
(9) 被告は、昭和二六年二月、「智惠子抄」を自己の手で再出版した。このとき、被告は、白玉書房版「智惠子抄」で新しくAが付け加えていた「松庵寺」、
「報告」の二編の詩を削除した。「智惠子抄」がAの編集したものであり、被告が出版者にすぎなかつたのであれば、Aの見識で行われた新しい詩の追加を被告が否定することはできないし、その必要もなかつたはずである。それにもかかわらず、
被告の意見によつて二編の詩の削除が行われたことは、「智惠子抄」の編集が被告によつてされたことを裏付けるものである。
(10) 被告は、Aの生前、「智惠子抄」の出版を企画した他の出版社に対し、
前記のとおりAを通じてその中止を求めていたが、次いで、自ら直接「智惠子抄」の「版権」が自分にあること、「智惠子抄」が被告の独自の出版創作にかかることなどを主張して第三者にその中止を要求した。Aは、被告の右行動に協力していたもので、被告が「智惠子抄」を編集著作したことを裏付けている。
(11) Aは、自己の著作物が出版される際、各出版者と印税に関する取決めをするのが普通であつた。これに対し、「智惠子抄」が発行される以前、被告とAの間には、金銭の支払いについて何らの取決めもなかつた。被告は、「智惠子抄」の初版第一刷発行後、Aに対して「お礼をどうしましようか。」と尋ねたが、Aに、
「君が作つた本だから君のものだ、印税など考えてくれるな。」と金銭の支払を拒絶された。被告は、初版第二刷が発行されたときにもお礼の支払を申出たものの拒絶されたので、Aのポストに「寸志」を投げ込んだ。被告は、第三刷発行のころ、
改めて「お礼」を受取つてくれるよう手紙で申入れ、ようやくAの承諾を得た。右のとおり、Aと被告との間では、「智惠子抄」に関する「お礼」の支払について、
金額、定価に対する割合及び支払時期など一切取決めがなく、被告が持参又は送付する任意の額の「寸志」の支払によつて処理されてきた。Aが、このような「寸志」の支払を受けるのに甘んじていたことは、「智惠子抄」が被告の編集著作になることを推認させるものである。なお、被告は、任意の「寸志」とはいいながら、
定価の一割になるような金額を、各刷の出版から六か月以内に支払うべく心掛けていた。
(12) Fは、「智惠子抄」刊行以前からAと近しい間柄にあつたが、昭和二五年一一月訴外H編集によつて出版されたAの詩集「典型」について、「出版ニユース一九五〇年一一月中旬号」に書いた「詩集『典型』の背景」という書評において、「『道程』もAさん自身が編んだものではない由きゝ及んでゐるが、もしもさうなら氏の何十年かの詩作の生涯で、Aさんは自らは一冊の詩集も編纂してゐない。」と書いた。この文章を書くについて、Fの意識の中に、「道程」のほか「智惠子抄」があつたことは疑問の余地がない。そうすると、Fは、この文章を書いた昭和二五年の時点で、「智惠子抄」を編集したのがAでないと考えていたことが明らかである。
(13) Aは、もともと詩集を出すことについて積極的でなく、自ら詩集をまとめる気持ちに乏しかつた。Aは、Bに関する詩についても、「智惠子抄」以前においては、全くバラバラに各所に発表し、同じ本の中に収録された詩文でも「○○○」「B」と別々の表記をしてその統一や構成を図ろうとしなかつた。詩集の編集や発行についての右Aの態度からすると、同人が「智惠子抄」に収録する作品を自ら選択し配列したとするのは不自然である。けだし、「智惠子抄」の編集は、Aの多数の作品群の中から主題、対象を限定し、Bに関する作品を抽出してその生涯をまとめあげつつAとBの愛の世界を読者の前に呈示するという意識的な構想と作業をその内容とするものであり、右Aの態度とは全く正反対な行為だからである。
Aは、詩集「道程」において、詩を制作年代順に配列しているが、これは詩集全体の構成上において何ら積極的な意味を持つておらず、単に作者の内面のエヴオリユウシヨンが自ずから分かるという意味しかなかつた。これに対し、「智惠子抄」においては、Bの生涯を浮き彫りにし、AとBの愛の世界を明らかにするという詩集全体の構成から、各詩をその制作年代の時間的流れに沿つて並べつつ、なお各詩の内容感に従つて配列に工夫を加えるという手法が取られた。このように「道程」における詩の配列方法としての制作年代順と「智惠子抄」における詩の配列方法としての制作年代順とは、その目的において決定的に意味を異にしている。
(14) 「智惠子抄」の直前に出版された「道程」(改訂版)と「智惠子抄」を対比すると、一三編の詩が重なつて収録されている。Aは、どうしても除外し難い場合を除き、複数の詩集に重複して詩を採録することを嫌つた人物であるが、このようなAの気質からすれば、Aが、時を同じくして出版された「道程」(改訂版)の収録詩と半数近い詩編が重複するような形で「智惠子抄」の作品の選択配列をしたとすることには無理がある。
(15) 「智惠子抄」には、「道程」(改訂版)に収録されなかつた「深夜の雪」が採録されているところ、「道程」(改訂版)に「深夜の雪」が収録されなかつたのはAの意思の反映と見られるから、そのAが、同詩集と相前後して出版された「智惠子抄」にこれを採録したと推測することには合理性がない。
(16) 「智惠子抄」においては、各詩の句読点使用方法が全くバラバラで、そこに統一的な原理や方法論を見出すことはできない。右不統一が何に由来するのかは不明であるが、Aが、自ら詩文を慎重に取捨し、配列し、綿密な推こうを加え、
制作年月日の表示についても「道程」収録詩については年月までの表示にとどめたというのであれば、「深夜の雪」のように一編だけ句読点が付されたり、「樹下の二人」以下の各詩についても句読点が付けられたり付けられなかつたりのバラバラの状態を放置するはずがない。したがつて、この句読点使用上の混乱こそ、Aが詩文を取捨し、配列、構成して一括して被告に渡したものでないことを裏付けるものである。
(17) 「智惠子抄」は、Aの死後、Fを初めとして多くの「編者」らによつて、様々に形を変えられて出版されるに至つた。このようなことは、Aが真実「智惠子抄」を編集したのであれば生じないことである。なかでもFは、Aの高弟であり、事後的にせよ「智惠子抄」の編集が誰によつてされたかを知ることができる立場にあつたから、右事実は、Fが、被告によつて「智惠子抄」の編集がされたことを知つていたことを示すものである。
以上のとおりの各事実からみても、「智惠子抄」を編集したのが被告であることは明らかである。
3 旧法下で適法に成立した編集著作物の利用については、改めて原著作権者の許諾は必要でない。
(一) 現行著作権法(昭和四五年法律第四八号。以下、「新法」という。)付則2条1項の規定は、新法施行の際、既に旧法の規定による保護期間が満了している著作物について、新法の保護期間に関する規定を適用すると依然、保護期間中になつてしまうものについて、ひとたび消滅した権利の復活を認めることになると、既に形成されている著作物自由利用の法秩序を乱すことになるので、このような著作物は、新法の保護を受けないことにすることを明らかにしたものである。この規定から、新法施行時に存続していた旧法下の著作権については新法が全面的に適用されるとの結論を導き出すことは、法の解釈の基本原則である法律不遡及の原則に反する。
また、新法付則17条は、新法施行前に行われた権利侵害に対する救済措置等については旧法の規定によるとして法律不遡及の原則を明らかにしたものであるが、
その反対解釈により、旧法下で成立した権利の範囲が新法によつて制約されるとすることは、法律不遡及の原則を崩すものである。
一般に、法律に遡及効が与えられる場合は、それが公益上特に必要とされ、かつ、明文の規定が置かれるのが通常であり、明文の規定も公益上の必要もないのに一片の条文の反対解釈だけで法律の遡及効を認めることはできない。
(二) 「智惠子抄」の編集著作の成立に関しては旧法が適用される。旧法によれば、原著作権者又は原著作者(以下、「原著作権者等」という。)からの許諾を得て適法に編集を行つた者は、その編集物について原著作権から独立した別個の著作権を取得し、自己の編集物を自由に出版利用することができるのであつて、その出版のために更に原著作権者等からの出版許諾を必要とするのではない。すなわち、
(1) 改作物、編集物、翻訳物等の第二次著作物について発生する著作権(以下、「第二次著作権」という。)と原著作権との調整を規制する立法例として、
イ 第二次著作物の著作者は、適法に、すなわち、原著作権者等の許諾を得て著作した場合に限り第二次著作権を取得することができ、原著作権者等の許諾を得ていなかつた場合には、第二次著作物の著作者は、第二次著作権を取得できないとするもの(以下、「第一の立法例」という。)ロ 第二次著作物の著作者著作者であるから、原著作権者等の許諾の有無を問わず著作権者となり、原著作権者等の許諾を得ていない場合には、その利用について原著作権侵害の責めを問われるとするもの(以下、「第二の立法例」という。)の二つがある。
(2)イ 旧法上の第二次著作物のうち、編集著作物(旧法14条)、異種複製著作物(同法22条)、録音著作物(同法27条の7)は、第一の立法例により、翻訳著作物(同法21条)、映画化著作物(同法22条の4)は第二の立法例によつてそれぞれの内容が規定されていた。旧法は、14条において、編集著作物につき、「数多ノ著作物ヲ適法ニ編集シタルモノハ著作者ト見做シ其ノ編集物全部ニ付テノミ著作権ヲ有ス」と規定し、編集自体の適法性を編集著作権の成立要件としていた。そして、その適法性具備の一形態として、原著作権者等による編集の許諾があつた。その反面、編集著作物は、旧法22条の異種複製著作物、旧法27条の7録音著作物の場合と同様に、その利用に関し、原著作権者等を保護する規定は存していない。これに反して旧法21条の翻訳著作物の場合は、「翻訳者ハ著作者ト見做シ本法ノ保護ヲ享有ス。但シ原著作者ノ権利ハ之ガ為ニ妨ゲラルルコトナシ」と規定され、適法性の要件を第二次著作権の成立要件からはずし、その代わりに同条ただし書において、第二次著作物の利用に関して原著作権者等の保護が図られていた。旧法22条の4の映画化著作物の場合も同様であつた。
右立法の趣旨から明らかなとおり、旧法14条編集著作物の規定は、同法1条の翻訳著作物の規定や同法22条の4の映画化著作物の規定とは別個の建前で法制化されている。したがつて、編集著作物と翻訳著作物や映画化著作物との立法上の差異に何ら考慮を払わずに、旧法14条ただし書を旧法21条ただし書と同趣旨の規定であるとするのは、誤りである。法律が編集著作物につき、原著作物とは別個の新たな著作権の発生を認めたのであるから、その利用を特別に制限する規定が存しない以上、その利用は無制限であると解するのが権利の性質上当然である。なお、編集著作権の成立及び行使の双方に原著作権者等の許諾を要するとする立法例は皆無である。
ロ 編集著作権の成立要件と利用要件が峻別され、これが別個の法概念であるということから、常にその両者について原著作権者等の許諾が必要であるという結論を論理的に導き出すことはできない。法制化されている第二次著作権の成立又は利用についての原著作権者等の許諾は、原著作権者等と第二次著作権者の立場を法的に調整するためのものであり、両者の調整という観点から、成立又は利用のいずれか一方を原著作権者等の許諾にかからせるというように、相互に有機的関連をもつて法定されている。第二の立法例では、第二次著作権の利用については、原著作権者等の許諾を必要とする一方、その成立については許諾を不要とし、第一の立法例では、第二次著作権の成立について原著作権者等の許諾を必要とする一方、その利用については許諾を不要としているというべきである。第二の立法例について、第二次著作権の成立及び利用の双方ともに原著作権者等の許諾が必要であるということになると、第二次著作物の精神的創造性に着目して、これを原著作物とは別個の著作物とし、これに独自の権利の成立を認めた法の趣旨が没却され、第二次著作権は独自性を失い原著作権に完全に従属することになり、必要以上に精神的創造物についての権利の範囲を狭める結果となる。旧法においては、翻訳著作物や映画化著作物については、著作権の成立につき原著作権者等の許諾が成立要件とされていないからこそ、原著作権者等を保護するために、その利用に関して原著作権者等の許諾が必要である旨の規定が置かれているが、編集著作権の場合には、成立に関し許諾が要件になつているから、その利用には原著作権者等の許諾が必要だという条文が存在しないのである。他方、新法は、編集著作物について、旧法とは逆に第二の立法例に立脚し、独創性のあるものであれば、原著作権者等の許諾の有無にかかわらず編集著作権を成立させることとし、ただその利用に関しては原著作権者等の許諾を要するとしたものであるから、安易に新法の規定の趣旨を旧法上の編集著作権の解釈に推し及ぼすことはできない。
ハ 編集著作権について、その成立と利用の双方に原著作権者等の許諾を要するとすれば、成立についての許諾は、利用、すなわち著作権の機能のうち最も中心的なものである複製を認めない許諾ということにならざるをえない。しかし、このような許諾には、全く意義はないし、このような許諾を複製権を中心とする著作権の成立要件にすることも矛盾である。
原著作権者等が編集者に対して許諾を与える際、当事者間で利用の条件を定めておくことは、私的自治の原則に照らして可能である。編集著作の許諾に際し、原著作権者等が、出版者と直接契約を締結することが困難であるとしても、原著作権者等は、編集者との間で、将来編集著作物の出版に当たり、いかなる出版社を選択するか、出版の形式をどうするか、出版社から受ける印税をいくらにするかなどの点について、編集者は原著作者と協議してこれを決定する旨定めておくこと、また、
あらかじめ原著作権者等と編集著作権者の印税の取得割合を定めておくこと、更に、編集著作者がこれらの約束に反したときは、原著作権者等は編集著作権者に編集著作物の出版中止を求め得ると定めることは法的にも事実上も可能であるから、
原著作権者等は編集著作物の出版に際して自らの意見を十分反映させ、自己の権利を守ることができる。
以上のとおり、旧法下で適法に成立した編集著作権の利用については、改めて原著作権者等の許諾は必要でない。
4 仮に、被告が「智惠子抄」を単独で編集著作したものでないとしても、前記2の「智惠子抄」の編集経過に照らせば、「智惠子抄」は、Aと被告の共同編集著作になるものである。したがつて、被告は、「智惠子抄」について、その編集著作権の持分二分の一を有する。
5 Aは、昭和一六年六、七月ころ、第一次案を被告に返還した際、被告に対し、
「智惠子抄」を構成する各作品の著作者及び著作権者として、「智惠子抄」の編集著作及びその出版の許諾をした。
仮に、「智惠子抄」がAと被告の共同編集にかかる著作物であるとすれば、Aの右出版の許諾は、「智惠子抄」の共同著作者及び著作権共有者としての許諾をも含む。
6 被告は、昭和四三年一二月一九日、引受参加人を設立し、同会社に被告の出版事業を承継させた。引受参加人は、実質的にみて被告と全く同視される者であるが、被告は、このような者に対して、「智惠子抄」の出版を再許諾し得る権限をAから付与されていたというべきである。そして、引受参加人は、その設立と同時に、「智惠子抄」の出版を被告から再許諾された。したがつて、引受参加人は、
「智惠子抄」を適法に出版することができる。
7 原告は、被告の編集著作権又は共同編集著作権を否認し、「智惠子抄」の編集著作権者であると称して他の出版社に「智惠子抄」の出版を許諾し続けている。
8 よつて、被告は、
主位的に、「智惠子抄」について被告が編集著作権を有することの確認を、
予備的に、「智惠子抄」について被告が編集著作権の持分二分の一を有することの確認を、
それぞれ求める。
四 抗弁等に対する認否1 抗弁等1は、認める。
2(一) 同2(一)冒頭部分は争う。「智惠子抄」編集の経過は、本訴請求の原因において主張したとおりである。
(二) 同2(一)(1)ないし(3)のうち、Aが、昭和一四、五年ころ、わが国における代表的な詩人の一人として専門の詩人から高い評価を受けていたこと、
しかし、個人詩集としては、大正三年に「道程」が刊行されたのみであつたこと、
被告がAの詩集を出版したいと考え、昭和一四年三月ころ、Aに対し、その旨申入れたが承認を得られなかつたこと、その後、被告がBに関する詩文を集めた一冊の本を出版する企画を立てたことは認め、その余は争う。
Aは、昭和一四、五年ころ、専門の詩人から高い評価を得ていただけでなく、広い層の読者を持ち、一作一作が話題を呼ぶ社会性を持つた詩人として早くからその地位を確立していた。
(三) 同2(一)(4)のうち、被告が第一次案をまとめるに当たり、別紙第二表中の「被告D原案」欄記載の詩文全部をBに関するものであると判断していたこと、第一次案に選択された詩文及びその配列並びに内容順序表の内容が被告主張のとおりであることは認め(ただし、第一次案の配列は、正確には別紙付表T又は別紙付表Uの「被告D原案」欄記載のとおりである。)、その余は否認する。
(四) 同2(一)(5)のうち、被告が、昭和一五年一二月ころ、第一次案を被告主張どおりの形に編綴し、内容順序表(その配列は、正確には別紙付表T又は別紙付表Uの「被告D原案」欄記載のとおりである。)とともにAに交付したことは認め、その余は否認する。
(五) 同2(一)(6)のうち、Aが被告から第一次案を受取るにとどまつたことは認め、その余は否認する。
(六) 同2(一)(7)のうち、Aが、被告に対し、新詩集刊行の許諾をしたこと、被告から預かつた第一次案、内容順序表を返還し、かつ、被告主張の自筆原稿などを交付したこと、第一次案の詩「|に」の題を「人に」(いやなんです)と改め、同案の九番目に配列されていた「人に」(遊びじやない)の詩の削除を求めたことは認め、その余は否認する。
(七) 同2(一)(8)及び(9)は否認する。
(八) 同2(一)(10)のうち、Aが、被告に対し、「淫心」、「婚姻の榮誦」の二編の詩の削除を希望したこと、被告主張の各作品の制作年月日を教示したことは認め、その余は否認する。
(九) 同2(一)(11)は否認する。
(一〇) 同2(一)(12)は認める。
(一一) 同2(一)(13)及び(14)は否認する。
3(一) 同2(二)(1)は争う。
(二) 同2(二)(2)のうち、Aが白玉書房版「智惠子抄」巻末の「記」に、
被告主張の文章を書いたことは認め、その余は否認する。
右文章は、単にAが「智惠子抄」の企画、出版、普及に関する被告の寄与に対し、感謝の意を表したにすぎない。
(三) 同2(二)(3)のうち、Aが「智惠子抄その後」の「あとがき」に被告主張のような文章を書いたことは認め、その余は、否認する。
Aは、右「あとがき」において、「智惠子抄」を「はじめて世に送つてくれたのは龍星閣主人D君」であると述べており、被告を「智惠子抄」の出版者とのみ考えていたことが明らかである。
(四) 同2(二)(4)のうち、Aが、白玉書房版「智惠子抄」の「記」に被告主張の文章を書いたことは認め、その余は争う。
(五) 同2(二)(5)のうち、Aが、昭和一六年九月一八日、訴外Pあてのはがきに、「今夏はひどく健康を害し、殆と何も出来ず、わずかに舊稿整理などで過ごしてしまひました。」と書いたことは認め、その余は争う。
(六) 同2(二)(6)は争う。
Aは、他の出版社から「智惠子抄」が出版されることにより、被告が営業的打撃を受けないよう配慮していた。被告があげるイないしホの事実も、その趣旨であり、これは、被告が初めて「智惠子抄」を企画、出版したことに対するAの感謝の表れ以上のものではない。
(七) 同2(二)(7)ないし(10)はいずれも争う。
(八) 同2(二)(11)のうち、「智惠子抄」について、昭和二六年ころまで、いわゆる「寸志」制度が取られていたことは認め、その余は争う。
「寸志」制度が取られたのは、Aが、「智惠子抄」出版について被告に感謝し、
被告を信頼していたこと、Aが、金銭のことを口に出すのを卑しみ、著作権使用料を喧しく取立てるという性格でなかつたことによる。
Aは、「寸志」制度に満足していなかつた。そこで、被告は、Aに対し、昭和二六年五月一四日付け及び同年七月四日付けの各書簡で、一割の「印税」を支払う旨約した。これ以後、Aは、その日記中で、被告から「印税」を受領した旨記すようになつた。
(九) 同2(二)(12)のうち、Fが「出版ニユース一九五〇年一一月中旬号」に被告主張の文章を書いたことは認め、その余は争う。
「道程」、「大いなる日に」及び「記録」は、Aが編集したものであるから、Fの右文章は誤りである。Fは、「智惠子抄」の刊行当時から終戦後暫くの間、中国に滞在していたし、Aも、右文章執筆当時岩手県に引きこもつていたため、FがAから「智惠子抄」刊行の経緯を聞く機会を持つことは不可能であつた。したがつて、右文章は、本件訴訟に影響を与えるものではない。
(一〇) 同2(二)(13)は争う。
Aは、大正三年に「道程」を刊行して以後、その後の作品について、個人詩集を編集することに熱心でなかつたかもしれないが、一旦詩集の刊行を決意した後は、
他人に編集を委ねた場合を含めて、素材の収集、取捨選択、校訂等のすべてについて綿密な注意、配慮を払つていた。Aは、作為的な編集を好まず、「一つの雑綴」のように見えるほど無造作に制作順に作品を並べて、注意深い読者に自ずから作者の内面の「エヴオリユウシヨンを見てもらはう。」という考えであつた。しかし、
Aは、まだ「雑綴」的に作品を集めれば足りると考えていたわけではなく、収めるべきものを収め、削るべきものを削つて注意深い読者に作者の内面のエヴオリユウシヨンを窺うことができるような編集(取捨選択)を意識的に採用した。Aは、
「智惠子抄」の場合も、AとBの愛の世界のエヴォリュウションが、注意深い読者に納得できる形を意図して編集した。
(一一) 同2(二)(14)ないし(16)は争う。
被告は、「智惠子抄」について、Aに断りなく、各詩文などの表記、句読点を訂正することはできないし、したはずもない。それゆえ、Aがこういう不統一な表記のままの原稿を被告に交付し、被告はそのままこの原稿を印刷に付したと考えられるから、こうした不統一が存在すること自体、被告が素材を綿密に吟味し、取捨選択及び配列を行つたのではないことを示している。
(一二) 同2(二)(17)のうち、「智惠子抄」が、Aの死後、Fを初めとして、多くの「編者」らによつて、様々に形を変えられて出版されるに至つたことは認め、その余は争う。
A自身、被告出版の「智惠子抄」に若干の作品を付け加えようと考えており、これが唯一無二のものと思つていたわけではない。
4 同3は争う。
被告が「智惠子抄」の編集著作権を有するとしても、同詩集の各作品についての著作権者たる原告の出版許諾が現にないから、引受参加人は、「智惠子抄」を出版発行する権限がない。すなわち、
(一) 旧法で成立した編集著作物の利用については、これを構成する各作品の原著作権者等の許諾が必要である。
(1) 新法では著作権の成立とその利用とは厳密に区別されており、二次的著作物の利用について原著作権者等の許諾を要すると同様、編集著作物の利用についても、その部分を構成する著作物の著作権者等の許諾を要する。
引受参加人の出版にかかる「智惠子抄」は、旧法下において編集、出版されたものであるが、その利用については新法が適用され、著作権者たる原告の許諾がなければ適法な出版ができない。新法6条各号に規定する著作物で、新法施行の際に公有に帰していないものについては、新法の規定が全面的に適用され、これにより旧法下で成立した著作権も新法による著作権としての保護を享受することになる。もつとも、存続期間等について旧法と違いがあるので、全面的に新法によることとした場合は、不適当であることがあり、立法政策的配慮から、例外的に旧法をそのまま適用させる事由を定めることも立法作業における通例である。このため、新法施行に際し、付則が定められている。この付則による例外的事由に該当する場合に限り、旧法が全面的ないし部分的に適用され、右事由に該当しない場合は、新法が適用される。編集著作権の場合、新法の付則中に旧法の適用を認める規定は存在しないから、新法の規定が適用される。しかも、新法付則17条は、新法施行前にされた権利侵害については、旧法の特定の条項が適用される旨規定しているから、逆に旧法時に成立した著作権を新法施行後において利用する場合には、新法が適用されることがこの規定により明らかである。
(2) 旧法下で成立した著作物の利用について旧法が適用され、かつ、「適法」に編集が行われたとしても、編集著作権者は、その編集物を、これを構成する各著作物の著作権者と無関係に、自ら複製し又は複製を許諾することは以下のとおり許されない。
イ 旧法14条は、「数多ノ著作物ヲ適法ニ編集シタルモノハ著作権者ト看做シ其ノ編集物全部ニ付イテノミ著作権ヲ有シ各部ノ著作権ハ其ノ著作者ニ属ス」と規定している。同条の編集著作権は、旧法21条の翻訳物についての著作権や旧法22条の4の他人の原作に基づく映画についての著作権と同様、いわゆる二次的著作物についての著作権である。この種の著作権は、その著作物の利用に当たつては原著作権者等の制約を受ける。例えば、翻訳者から翻訳物についての出版許諾を受けても、原著作権者等から出版許諾を受けない限り、適法に出版を行うことはできない。このことは、旧法21条ただし書に、「但シ原著作者ノ権利ハ之カ為ニ妨ケラルルコトナシ」と規定されていることから明らかである。旧法21条ただし書と旧法14条とは同趣旨の規定である。その表現が異なるのは、旧法14条本文で、編集著作権は「編集物全部ニ付テノミ」成立すると規定したので、これと対比して、
「各部ノ著作権ハ其ノ著作者ニ属ス」と規定したからであり、これらが同趣旨であることは、新法11条12条の2の各二項と同様である。
ロ 旧法14条にいう「適法」な編集とは、編集著作権の成立要件であつて、編集された編集物の自由な利用まで保証するものではない。編集者は、「適法」に編集を行つた場合でも、当該編集物の出版については原著作権者等の許諾を要する。
被告主張の第一の立法例を採用すれば、第二次著作物の著作者の権利の存否が原著作権者等の意思いかんで左右されることになり、いかに独創性のある第二次著作物といえども、原著作権者等の意思いかんによつてその権利取得が否定され、例えば、原著作権者等が他人の著作した翻訳物を自由に複製できるというような不都合な事態が生じる。こうした不都合を避け、独創性のある著作物についての権利の成立を、原著作権者等の意思とは独立に認めることにしたのが第二の立法例である。
しかし、第二の立法例から、逆に第一の立法例においては、第二次著作物の適法な著作者が、その第二次著作物を原著作権者等とは独立別個、自由に利用しうると解釈することはできない。
編集著作権の成立要件として「適法」性が要求されるのは、原著作権者等の許諾なくして編集された編集物は権利保護に値しないという考え方に立つもので、一旦、
編集が適法に行なわれれば、編集著作権者が原著作権者等の意思を無視して自由に編集物を利用しうるというものではない。適法に成立した編集著作物は、原著作権者等、編集著作権者双方の出版許諾がなければ出版することができない。言い換えれば、原著作権者等も編集著作権者もいずれも単独では出版許諾できないものであり、これにより双方の権利が保護されるから、法制度として不自然なわけではない。
ハ 旧法14条の「適法」とは、「編集」に対する原著作権者等の承諾を意味し、
編集物の「出版」に対する原著作権者等の承諾を意味するわけではない。通常の編集物の場合、出版を予定しない編集は有り得ないから、出版に対する承諾をも同時に含む場合が多いであろう。しかし、出版者との間で出版契約により定められるべき諸条件が定まつていない状態で編集について原著作権者等が承諾を与えることもまた極めて普通である。もし、編集著作権者がその編集物を自由に利用しうること、すなわち、原著作権者等と無関係に自ら複製し、他に複製を許諾できることまでも意味するとすれば、出版に関するすべての条件が原著作権者等と合意されない限り、「適法」な編集は行い得ないこととなる。編集についてこのような合意を前提とすることは、編集著作権者と出版者とが異る場合が普通であるから、極めて非現実的である。原著作権者等の出版許諾の条件をどのように編集著作権者との間で取決めたところで、その条件が出版者との間で合意されない限り、かかる取決めは無意味である。原著作権者等が編集著作権者に対し出版許諾の条件を全面的に白紙委任すれば、こうした取決めをすることも可能かもしれないが、このような白紙委任をすることが不可能であることはいうまでもない。
また、被告及び引受参加人主張のように、適法に編集された編集物の編集著作権者がその編集物を原著作権の制約を受けることなしに自由に利用しうるとすれば、
その編集物の出版を編集著作権者の判断と裁量で行いうることとなる。つまり、著作権使用料額を初め、その支払方法、出版社、出版の形式等原著作権者等の権利を保護すべき約定が全くされないままに出版が行われ、原著作権者等が希望しないような態様での出版を許諾し、編集著作権者は使用料のすべてを自ら取得し、他方原著作権者等は使用料を出版社から支払われないとすることさえ可能となる。このことの不都合、不合理は明らかで、旧法14条ただし書を空文化することとなる。しかも、出版許諾はそれが出版権の設定であれ、債権的な出版許諾であれ、契約の満了や解約により許諾の失効が当然予定されるものであるが、旧法14条の「適法」性を与えるための原著作権者等の承諾は、一旦与えられれば、取消されたり、後に効力を失つたりするものではあり得ないのである。
5 同4は争う。
6 同5のうち、Aが昭和一六年六、七月ころ、第一次案を被告に返還した際、被告に対し、「智惠子抄」の出版許諾をしたことは認め、その余は否認する。
7 同6は争う。
引受参加人は、被告と別人格であり、株式の移転などにより支配権が移転する可能性があるから、Aが被告にした「智惠子抄」出版許諾の効力は引受参加人に及ばない。
8 同7は認める。
五 本訴再抗弁及び反訴抗弁(以下、「再抗弁等」という。)1 Aは、「智惠子抄」を構成する各作品についての著作権に基づき、被告に対し期限の定めのない債権的な出版許諾をした。Aの相続人である亡Mは、昭和四一年一〇月七日付け書面で、被告に対し、右出版許諾契約の解約を申入れた。期間の定めのない出版許諾契約は、解約申入れ後相当期間が経過したときにその効力が生じるところ、右解約申入れ後一〇年余りを経ている今日、相当期間が経過し解約申入れが効力を生じていることは明らかである。
しかも、右解約申入れについては次のように「正当事由」がある。
(一) 被告は、「智惠子抄」につき、前記のように無断で著作年月日登録をした。
(二) 被告は、「智惠子抄」を一回につき三〇〇〇部程度増刷し、その都度A又は亡Mに対して金四万円ないし金六万円の支払をしてきたのに、昭和四〇年七月末に至り、突然亡Mに対し、「智惠子抄」二万部増刷用の検印用紙と四〇数万円を送りつけ、同人がその真意を疑い、同年八月二日これらをすべて返却して以来今日に至るまで、亡Mないし原告に対し、「智惠子抄」の増刷時期、部数の報告並びに金員の支払を一切せず、現に、原告に無断で、引受参加人に対し「智惠子抄」の出版発行を許諾している。
亡Mは、昭和四〇年八月、被告から送りつけてきた金員の受領を拒絶した際、新潮文庫版「智惠子抄」の出版をめぐつて、当時被告と新潮社との間に裁判上の紛争が生じていたので、「本件落着の日まで一応」返却すると述べた。その後、右事件は解決し一〇数年を経ている。したがつて、今日、この事実をもつて、著作権使用料の支払はおろか、発行部数などの報告さえしていないことの口実とすることは許されない。
2 被告が「智惠子抄」の編集著作権の共有持分を有するとしても、
(一) 前記のとおり、被告及び引受参加人は、現に「智惠子抄」の各作品の著作権を有する原告の出版許諾を得ていないから、これを自ら出版発行し又は他にその出版発行を許諾する権限はない。
(二) Aの出版許諾は、編集についての著作権の許諾や行使とは法律上別個のものである。被告が、編集著作権の共有持分を有するとしても、それを行使するに当たつては、他の編集著作権共有者であるAの許諾を要することは勿論、これとは別に、原著作物の著作権者であるAからの出版についての許諾を要することは前述したとおりである。それゆえ、引受参加人が原著作物の著作権者である原告から適法に出版の許諾を受けていない以上、編集著作権行使についての共有者の同意が撤回ないし解約できるかなどを論じるまでもなく、引受参加人には出版権限がない(三) 光郎郎が「智惠子抄」の編集著作権共有者として被告に対してした出版許諾は、前記五1の「Aが「智惠子抄」を構成する各作品の原著作権者としてした出版許諾」とともに解約されたものであり、被告において、右共有の編集著作権を行使して、自ら出版発行したり、他にその許諾をする権限はなく、したがつて、引受参加人において、これを出版発行する権限もない。
六 再抗弁等に対する認否1 再抗弁等1のうち、原告主張の解約申入れがあつたこと、原告主張のとおり、
被告が検印用紙とこれに見合う金員(寸志)を亡Mに送金したこと、被告がその後の増刷部数、時期の報告及び寸志の支払をしていないことは認め、その余は否認する。
前記のとおり適法に成立した編集著作物の利用については、改めて原著作権者等の許諾を得ることは不要である。右利用許諾が必要であるとしても、被告は、Aから「智惠子抄」の編集許諾を得た際、同時に右利用の許諾も得た。
原告の解約申入れに「正当な事由」はない。すなわち、
(一) 被告が著作年月日登録をしたことは、編集著作権者として当然の行為である。
(二) 被告が、検印用紙とこれに見合う金員(寸志)を送金した後、亡Mないし原告に対し、増刷部数、時期の報告及び寸志の支払をしていないのは、亡Mが、これ以後寸志の受取りを拒絶したこと及び被告の抗議を無視して他社に対し「智惠子抄」の偽作版の出版許諾を強行したことに端を発しているから、原告にこの点を論難すべき資格はない。
(三) 引受参加人は、従来の個人経営を会社組織にしたにすぎず、従業員も個人経営におけると同じであり、少なくとも出版活動に関する限り、引受参加人は実質的にみて、被告と全く同視することのできる存在であるから、引受参加人が「智惠子抄」を出版発行していることをもつて、原告に対する背信行為ということはできない。
(四) 被告は、「智惠子抄」を構成する詩文等の著作権者たるAの許諾を得て、
初版発行以来、戦中戦後の一時期を除き、被告自ら又は被告と実質的に同視すべき引受参加人において、通算三一年間以上にわたり、一貫して原型のままの「智惠子抄」の出版発行を続け、世上、龍星閣版「智惠子抄」として定着させたものであり、Aが生前これを感謝し、被告の権利を守ろうとしていたことを、被告は、本件紛争が発生した昭和四〇年八月まで、A又は亡Mに対し、「寸志」を変わりなく支払続け、現にこれを支払う意思を有していること及び亡Mないし原告がAの没後現在に至るまで、「智惠子抄」の偽作版の出版を他に許諾し続け、被告の編集著作権を侵害していることからすると、原告には、解約申入れについての「正当な事由」はない。
なお、原告は、新潮社と被告との間の仮処分事件が終了した後も被告が寸志を支払つていないことを論難するが、新潮社の被告に対する権利侵害は、亡M及びその権利義務を承継した原告が被告の権利を無視して「智惠子抄」偽作版の出版許諾をしたことによるのであるから、被告の権利を否認する態度を変えずに、寸志の不払のみを非難するのは、失当である。
2(一) 同2(一)(二)は争う。
なお、共同編集著作者が自己の著作物につき著作年月日登録をしても、右登録著作者を公示したり、これを推定する効果を有するものでない以上、背信性はない。
(二) 同2(三)は争う。
著作権共有者が著作物の利用について、他の著作権共有者に対してする同意の法的性質は単独行為であつて、一旦その意思表示がされ、目的とする法的効果が発生すれば、表意者といえどもその後にこれを撤回ないし解約して、すでに発生した法的効果を消滅させることはできない。
また、右同意が将来に向かつて撤回ないし解約することの許されるものであつても、原告は、これを主張できない。すなわち、共有物については、各共有者は、共有物全部につき、その持分に応じた使用をすることができることが民法の原則である(民法249条)ところ、著作権の共有の場合、民法にいう「持分に応じた使用」なるものがいかなる範囲の使用を指すものか必ずしも明らかでないため、著作権共有者相互の利害を調整する目的で旧法13条2項や新法65条2項三項の規定が置かれていることを考え合わせると、右同意の撤回ないし解約に当たつては、少なくとも新法63条3項にいうような「正当な理由」を要するというべきであり、
したがつて、「同意の撤回ないし解約を認めなければ、その著作権共有者の権利を著しく害する結果となる特段の事由」がない限り、単に申入れ後相当期間を経過したというのみでは、同意の撤回ないし解約は効力を生じない。そして、本件において、特段の事由が存在しないことは、前記のとおりである。
七 本訴再々抗弁及び反訴再抗弁(以下、「再々抗弁等」という。)1 旧法下で成立した編集著作物の利用について、新法が適用されるとしても、原告が「智惠子抄」を構成する各作品の著作権者として、その利用を拒否して差止めを求めることは、権利の濫用として許されない。
被告の有する「智惠子抄」の編集著作権は、「智惠子抄」を構成する詩、短歌及び散文の著作権者たるAの許諾の下に成立したものであり、その行使が当然予定されていたのであるから、新法下で成立した編集著作権の場合とは異なり、実質的にみて何ら原著作権を侵害する性質のものではなく、また、Aは終生、亡Mも昭和四〇年六月まで、被告が「智惠子抄」を出版発行することを異議なく承諾していたから、その後単に法改正がされたことを奇貨として、原告が原著作物の利用を拒絶することは著しく信義に反する。更に、原告及び亡Mは、前記のとおり、「智惠子抄」の偽作版の出版発行を他に許諾し続け、被告の編集著作権を侵害していたのに、被告の抗議を受けるや、一転して従前の許諾を翻し、被告に対し、自己の権利の侵害を主張して、被告の正当な抗議を封じようとするものであり、著しく正義に反する。
2(一) Aが「智惠子抄」につき、被告に与えた編集著作権行使の同意の撤回(解約)が認められるとしても、前記六の1及び2(二)の事情を勘案すると、原告が「智惠子抄」の編集著作権共有者として右同意の撤回(解約)を主張することは権利の濫用として許されず、したがつて、差止めを求めることもできない。
(二) 右編集著作権行使の同意の撤回(解約)が認められるとすれば、被告は、
原告に対し、昭和五三年七月三日到達の書面で、旧法13条2項に基づき、原告が有する「智惠子抄」の編集著作権の共有持分二分の一を取得する旨の意思表示をした。
八 再々抗弁等に対する認否 再々抗弁等のうち、被告が原告に対し、昭和五三年七月三日到達の書面で、旧法13条2項に基づき、原告が有する「智惠子抄」の持分二分の一の共有編集著作権を取得する旨の意思表示をしたことは認め、その余は争う。
原告には何らの権利濫用もない。また、旧法13条2項による共有編集著作権の持分の取得請求は、新法の下では許されない。
証拠(省略)
理 由
本訴抹消登録請求について
一 Aが別紙第一表記載の詩二九編、短歌六首及び散文三編を著作したこと並びに「智惠子抄」が右各詩等を別紙第一表記載のとおりに配列、構成した編集著作物であることは、当事者間に争いがない。
二 最初に、「智惠子抄」の編集著作者が誰であるかについて検討する。
1 成立に争いのない甲第一号証の一及び三、第八号証の一、二、第一三号証、第一四号証の一ないし一九、第三四号証の一ないし八、第三五号証の一ないし四、第三六号証の一ないし七、第三七号証の一ないし四、第三九号証の一ないし三、第四〇号証、第四一ないし第四五号証の各一ないし三、第四六号証の一、二、第五二号証の一ないし三、第五三号証の一ないし四、乙第一号証の一、二、第九ないし第一四号証、第一八、第一九号証、第二五号証の一ないし六、第七四号証の一ないし三、第七五号証ないし第七七号証、第七八号証の一ないし四、第七九号証、第八三号証、第八五号証、第八七、第八八号証、第一〇四号証の一ないし一二、弁論の全趣旨により真正に成立したことが認められる甲第一五号証、第二二号証、乙第一一〇号証、被告本人尋問の結果(第一、二回。ただし、後記信用しない部分を除く。)並びに弁論の全趣旨を総合すると、「智惠子抄」編集の経過は以下のとおりであることが認められる。
(一) Aは、大正三年一〇月二五日、処女詩集「道程」を出版した後、個人詩集を編集発行したことはなかつたものの、自作の詩が、昭和四年四月一五日発行の改造社版「現代日本詩集、現代日本漢詩集」、昭和四年一〇月一五日発行の新潮社版「現代詩人全集」、昭和一四年一二月一五日発行の河出書房版「現代詩集」など比較的入手しやすい本に、「A」の名下にまとめた形で収録されていたうえ、雑誌にも数多くの詩歌が発表、掲載されるなどしており、既に昭和一四、五年ころには、
専門の詩人の間でのみならず、一般大衆の間においても著名な詩人となつていた(なお、Aが、大正三年一〇月二五日に詩集「道程」を発行したこと、Aが昭和一四、五年ころ、わが国における代表的詩人の一人として専門の詩人の間で高い評価を受けていたことは、当事者間に争いがない。)。
(二) 被告は、若いころから文学に興味を持つていたが、大正一四、五年ころ、
「港、詩と版画」(後に「風」と改題された。)という雑誌の編集、出版を始め、
右雑誌の同人である訴外R、同Sらに互し、自ら詩作をしてこれに発表し、また、
右雑誌をAのもとに送付するなどしていた。
その後被告は、自分がものを書くよりも、自分が出したいと思うものあるいは自分の意思表示になりうる他人の作品を出すことの方が有意義であると思うに至り、
昭和八年ころ、龍星閣の名称で出版業を始めた。
被告が龍星閣名義で出版した本は、昭和一四年三月ころには、俳句集を初めとして三〇冊以上に達していた。
(三) 被告は、Aについて、同人が翻訳した「ロダンの言葉」に感激し、ヒューマニストとして尊敬していたが、他方、その詩、ことに女性に関する詩については、西洋風な「バタ臭さ」を感じて、反発する気持ちが強かつた。
ところが、被告は、昭和一〇年五月一〇日発行の雑誌「書窓」第二号に掲載されたAの詩「風にのる智惠子」を読み、何とも言えない感動を覚え、数か月のうちに「道程」を読み返したところ、今まで二流の甘い詩と思つていたAの詩が、全然形相を変えて感じられ、素晴らしい詩であると全く認識を新たにし、Aの詩集を出したいと思うようになつた。被告は、それ以後、Aが発表する詩、ことにBに関する詩に大変な注意を払い、これが掲載された雑誌、新聞等を集め、切抜いて保存するようになつた。
(四) 被告は、昭和一四年三月ころ、Aを訪ね、一般に発表されているけれども未だ詩集に収録されていない作品について、第二詩集を出させてほしいと依頼した。Aは、被告の申入れを、「手元に何もないから。」と言つて拒絶した(被告が、Aの詩集を出版したいと考え、昭和一四年三月ころ、Aに対し、同人の詩集を出版したいと申入れたが、承認を得られなかつたことは、当事者間に争いがない。)。
被告は、Aに、詩集の出版を拒絶されたものの、その後もしばしばAの下を訪れて、新詩集出版の打診を続けた。
被告は、昭和一四年四月ころ「レモン哀歌」が、同年九月ころ「亡き人に」がそれぞれ雑誌「新女苑」に掲載されたのを見て、これでAのBに関する作品の制作も終わりだと考え、そのころAに対し、Bに関する詩集を出したいと申入れた。しかし、Aは、この時も「実におまえは不思議なことを言うもんだな。」と言つて、被告の申入れをにべもなく断つた。
(五) 被告は、その後もAに新詩集出版を申入れていたが、Aが非常に頑固に詩集の出版を拒絶するため、次第に自分でAの詩集を作ろうと思うようになり、Bに関する作品の収集を続けた。このころ被告は、最初の出版申入れのころと異なり、
AがBについて、「愛される人間像として」書いた詩文を、「道程」等の詩集に収録されている作品も含めて系統的に収集し、Bの生涯を浮き彫りにしようと構想するに至つていた(被告が、Aの作品の中からBに関する詩文を集めて一冊の本を出版する企画を立てたことは、当事者間に争いがない。)。
そうするうち、被告は、昭和一五年一二月ころ、雑誌「婦人公論」に掲載された散文「智惠子の半生」を読み、どうしてもBに関する詩集を出したいと考え、Aに対し、Bに関する詩集を作つてくるので出版を許可して欲しい旨申入れた。しかし、Aは、右申入れについて、許否を明らかにしなかつた。
(六) 被告は、Aに、被告が出版を意図している詩集がどのようなものかを分かつてもらうため、右申入れを実践して、以下のとおり第一次案及び「内容順序表」を作成した。なお、第一次案及び「内容順序表」の配列は、別紙付表Tの配列及び別紙付表Uの「被告D原案」欄記載の配列のとおりであつた。
(1) 被告は、A制作の詩文のうち、別紙第二表中の「被告D原案」欄記載の詩及び散文全部(ただし、被告は、「智惠子の半生」に引用された「樹下の二人」及び「あなたはだんだんきれいになる」の各詩については、その内容の一部分を知つているのみであつた。右二編の詩は、「あどけない話」とともに題名のみが「内容順序表」に掲載された。)と「道程」中に収録されていた「あをい雨」、「梟の族」及び「冬が来る」の三編の詩をBに関する詩であると考えていたが、右三編の詩を収録すると、かえつてBの生涯を浮き彫りにするという構想の邪魔になると考え、これを除外することとし、結局別紙付表Uの「被告D原案」欄記載の詩及び散文を選択した(なお、被告が、A制作の詩文のうち、別紙第二表中の「被告D原案」欄記載の詩文全部をBに関する作品と考えていたことは、当事者間に争いがない。)。
(2) 被告は、「道程」から選択した詩を最初に、雑誌等に掲載された詩を次に、散文を最後に配し、「道程」に収録された詩についてはその収録順に、雑誌に掲載された詩については雑誌に発表された順にそれぞれ配列したうえ、右配列に基づき「内容順序表」を作成した。「内容順序表」の配列は別紙付表Uの「被告D原案」欄記載のとおりである。被告は、「内容順序表」の最下欄に、「道程」から選択した詩についてはその制作年月を、雑誌に発表された詩文については雑誌の発行年月(ただし、「樹下の二人」、「あどけない話」及び「あなたはだんだんきれいになる」の各詩については空欄とされた。)をそれぞれ記載した。なお、被告は、
「道程」に収録された詩「おそれ」については、「道程」に制作年月日が記載されていなかつたので、その収録された位置及び内容から、これを大正一年八月制作と推測して「内容順序表」に記載した。
(七) 被告は、「智惠子の半生」が出てから間もない昭和一五年一二月ころ、収録予定の詩が掲載されている頁に赤い紙をはさんだ「道程」、別紙第二表中の「被告D原案」欄記載の「風にのる智惠子」から「梅酒」までの詩七編及び散文二編が掲載された雑誌の切抜を綴じたものを「内容順序表」のとおりに配列し、すなわち第一次案として、「内容順序表」とともに持参し、Aに交付し、こういうものを作つたので出させて欲しい旨申入れた。
Aは、この申入れに対しても、反対のような驚いた顔をし、右各資料を預かるのみで、その出版の承諾はしなかつた。
被告は、その後もAの下を再三訪れて、Bに関する詩集を出版するよう種々説得し、その許諾を求めたが、Aの許諾を得るに至らなかつた(被告が右のようにして作成された第一次案(ただし、配列を除く。)及び「内容順序表」をAに交付したこと並びにAが右各資料を預かるにとどまつたことは、当事者間に争いがない。)。
(八) Aは、昭和一六年六月一一日、Bのなきがらの帰宅を主題とした詩「荒涼たる歸宅」を制作するとともに、そのころ、Bに関する詩集を編集著作しようと決意し、同月一六日から二〇日ころまでの間に、電話で被告を呼び寄せ、「あれをやろうじやないか。」と言つて、Bに関する詩集を編集著作することを告げ、被告がこれを出版することを許諾した(Aが、昭和一六年六月一一日、詩「荒涼たる歸宅」を制作したこと、Aが、被告に、「智惠子抄」の出版を許諾したことは当事者間に争いがない。)。
Aは、この時までに被告から預かつた「道程」、雑誌の切抜及びA自ら所持していた詩稿(Aが、被告から提供された資料以外に、同人が制作した詩、短歌などについて、自ら別の資料を有していたことは、後記(3)のとおり、同人が、被告において確定できなかつた各詩の制作年月日等を確定していることから明らかである。)及び昭和一五年一一月二〇日に発行された「道程」(改訂版)などを基にして以下のとおりBに関する詩歌、散文を取捨選択、推こう、配列した。
(1) Aは、被告が呈示した「道程」等の右各資料(第一次案)から、「人に」(遊びじやない)の詩を除いた「内容順序表」に記載された各詩文を選択して、これを「智惠子抄」に収録することとした。
(2) Aは、自分の手元にあつた詩稿等の資料から、「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」、「人生遠視」の四編の詩、新たに創作した詩「荒涼たる歸宅」、雑誌などに掲載された短歌の中から「うた六首」(昭和一四年五月一日発行「中央公論」及び同年九月一日発行「知性」にいずれも「舊詠一束」と題して掲載された短歌の中に五編が、昭和四年改造社版「現代日本文学全集」第三八巻「現代短歌集」にその余の一編が含まれていた。)をそれぞれ選択してこれらを「智惠子抄」に収録することとした。なお、Aは、第一次案に題名だけ掲げられていた詩「あなたはだんだんきれいになる」について完全な詩稿を作成した。
(3) Aは、「内容順序表」で制作年月日及び発表年月日が不明とされていた「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」及び「あどけない話」の各詩並びに掲載された雑誌の発行年月日が記載されていた「風にのる智惠子」、「千鳥と遊ぶ智惠子」、「値ひがたき智惠子」、「山麓の二人」、「或る日の記」、「レモン哀歌」、「亡き人に」、「梅酒」の各詩について制作年月日を、「智惠子の半生」及び「智惠子の切抜繪」の二編の散文につき制作年月を確定した(この点は、
当事者間に争いがない。)。
(4) Aは、このようにして選択した各作品を、詩、短歌、散文の順に配列し、
詩については「荒涼たる歸宅」を除いて右で確定した制作年月日に基づきその順に配列した。このため、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」及び「あどけない話」の配列が、別紙付表Tの順番から現在の「智惠子抄」の順番(別紙第一表参照)に改められた。
「荒涼たる歸宅」は、Bのなきがらの帰宅を主題としたものであるため、Bの死後同女を追想する詩である「亡き人に」及び「梅酒」の前に置くこととして、この一編だけは制作年代順の原則を崩して配列した。
短歌については、前記中央公論等から収録することにした六編をまとめて、現在の「智惠子抄」の順番に配列した。
(九) Aは、新詩集出版の許諾をした際、被告に対し、預かつていた「道程」等の資料及び「内容順序表」を返還するとともに、末尾に赤鉛筆で制作年月日を記載した「夜の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「人生遠視」、「風にのる智惠子」、「荒涼たる歸宅」の五編の詩及び制作年月日等の記載のない「うた六首」の短歌の各自筆原稿、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」の各詩を掲載した雑誌の切抜を、編綴しないままの状態で交付し、かつ、「樹下の二人」について、これが掲載されている「道程」(改訂版。なお、Aは、これを昭和一六年一月ころ被告に贈つた。)により詩稿を作成するよう指示した。また、Aは、詩の配列について、制作年代順の原則によること、「荒涼たる歸宅」については右原則を崩して「亡き人に」の直前に配列すること及び「人に」(遊びじやない)を削除することを被告に指示した(Aが、被告に対し、以前預かつた「内容順序表」及び「道程」等の資料をすべて返還したことは、当事者間に争いがない。)。
更に、Aは、被告が新詩集の題名を「詩集智惠子」にしたい旨提案したのに対し、即座に「いや『智惠子抄』にしよう。」と言つて、題名を「智惠子抄」に決めた。念のためAは、昭和一六年六月二〇日ころまでに、右題名を手紙で被告に通知した。
(一〇)(1) 被告は、右許諾の日から一週間ないし一〇日後、Aから返還又は交付された資料等を指示されたとおりに配列、整理してAの下に持参して交付するとともに、そのときまでにBに関する作品であることに気付いた「道程」(改訂版)中の「狂奔する牛」、「鯰」の二編の詩、昭和一六年七月雑誌「新若人」に掲載された散文「九十九里濱の初夏」を収録してはどうかとAに進言した。
(2) Aは、被告の進言を検討し、右各作品を「智惠子抄」に収録することとし、手持ちの資料に基づいて「道程」(改訂版)では制作年月日が不明とされ又は制作年月のみが記載されていた右各詩の制作年月日を確定し、かつ、「九十九里濱の初夏」の制作年月を確定した。
更に、「道程」から収録することにしていた「淫心」及び「婚姻の榮誦」については、太平洋戦争突入直前の時局を考慮して、これを収録しないこととし、「これはやめようじやないか。」と言つて、その旨被告に指示した。Aは、新たに加えることにした二編の詩を制作年月日順に従前の詩の中に配列し、「九十九里濱の初夏」については散文の最後に配列することとした(Aが、右各作品の制作年月又は制作年月日を確定したことは、当事者間に争いがない。)。
(3) Aは、以上のように配列、制作年月日等を確定しつつ、これに基づき、
「目次並作品年表」を作成した。その際、「道程」から収録した詩について、「内容順序表」の記載をそのまま利用した。このため「目次並作品年表」は、詩について原則として制作年月日まで記載されているにもかかわらず、「道程」から収録した詩については、「内容順序表」に制作年月しか記載されていなかつたのを引継ぎ、その制作年月のみが記載された。
(4) Aは、各詩及び散文について、これが印刷されるまでの間に、綿密な推こうを重ね、「○○○」、「○○○」の表記を「B」に統一し、「|に」の題名を「人に」(いやなんです)と改め、「風にのる智惠子」の末尾に「智惠子飛ぶ」の一文を加入するなど重要な変更を加えたことを初めとして、各詩及び散文について、その表現を変更、訂正した。また、一部の短歌についても、「智惠子抄」に載せるため、被告に詩稿を手交したときまでに、推こうをした(Aが、「智惠子抄」を構成する各詩について推こうを行つたことがあること、「|に」の題名を「人に」(いやなんです)と改めたことは、当事者間に争いがない。)。
(一一) Aは、右の経過で「智惠子抄」の原案を確定し、遅くとも昭和一六年七月末ころまでには被告に右原案を伝えた。被告は、右Aの原案に基づき、印刷に回せるような原稿を作成してAに呈示し、その了解を得て、昭和一六年八月一五日ころまでにこれを印刷し、同月二〇日「智惠子抄」として出版した。
「智惠子抄」編集の経過については、以上の各事実を認めることができる。
2(一) 被告は、「智惠子抄」の編集経過について、
(1) 「智惠子抄」に収録された各作品を取捨選択したのは被告である。すなわち、第一次案は被告が取捨選択して創作した。第一次案に収録された作品以外で後から追加された「狂奔する牛」、「鯰」の二編の詩及び散文「九十九里濱の初夏」も被告が採録した。Aが自筆原稿等を渡してくれたり、詩文の制作年月を教えてくれたのは、第一次案を渡した際に申出た被告の要望にAが答えた以上の意味はなく、その採否自体は被告が決定した。「人に」(遊びじやない)、「淫心」、「婚姻の榮誦」はAの希望を入れて被告が削除した。
(2) 被告は、「智惠子抄」の配列を、Aから教示された各詩の制作年月日を参考にしつつ、各詩の内容感に基づいて決定したものであり、Aからは何らの指示も受けなかつた。
(3) 題名は、被告が、Aから「題は決まつていますか。」と聞かれ、「『詩集智惠子』とつけます。」と答えたところ、「『抄』を入れたらどうだろう。」と言われてこれに感心し、被告において、「智惠子抄」と決めた。
旨主張し、被告本人の供述(第一、二回)中には右主張に沿う部分が存在する。しかし、右供述部分は(二)のとおり信用できず、他に右主張を肯認するに足りる証拠もないから、右主張は採用し得ない。
(二) 被告が第一次案をAに呈示したこと、第一次案が、配列の点を除いて別紙付表Tのとおりの詩文から構成されていたこと、「智惠子抄」が別紙第一表記載の詩、短歌及び散文を同表のとおりに配列構成した詩集であることは、当事者間に争いがない。右争いのない事実及び前記のとおり第一次案の配列が別紙付表Tのとおりであつたことに照らすと、「智惠子抄」は、被告が呈示した第一次案の中から、
「人に」(遊びじやない)、「淫心」及び「婚姻の榮誦」の三編の詩が削除され、
「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」、「狂奔する牛」及び「鯰」の七編の詩、並びに「うた六首」及び散文「九十九里濱の初夏」が加えられて成立したことが認められる。
また、前記当事者間に争いのない事実及び前記のとおり第一次案の配列が別紙付表Tのとおりであつたことによると、第一次案は、「道程」から採録した各詩についてはその掲載順に、雑誌に掲載された各詩については、その雑誌の発行年月順に、同一の雑誌に掲載された場合にはその掲載順に配列されたことが認められる。
これに前記第一、二1(六)(1)のとおり「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」及び「あどけない話」の三編の詩については題名だけが内容順序表に載せられていたという事実を合わせ考慮すると、被告の意図はともかくとして、
客観的にみれば、第一次案は、これから編集著作される新詩集の素材を集めたものにすぎないと認められ、Aも、第一次案をこのような新詩集制作のための素材として考えていたと推認される。ところで、前記第一、一及び二1のとおり、Aは、
「智惠子抄」を構成する各作品の著作者で、かつ、当時から高名な詩人であり、これに対し、被告は龍星閣の名称で出版業を営んでいた者である。したがつて、一般的には、右各作品の著作者であるA自身が「智惠子抄」の編集に携わつた以上、文学的素養があるにせよ、出版業者であるにすぎない被告がAの編集行為に容嘴することはできなかつたと考えるのが自然である。実際にも、前記第一、二1のとおり被告は、Aが右第一次案に対してした修正、増減について、Aの意向に全面的に従つていたことが明らかである。
前掲甲第八号証の一、二及び第一三号証によると、「智惠子抄」編集の経過について、「婦人朝日」昭和三二年七月号に掲載され、これが変更、訂正されて「智惠子抄その後」の「しおり」に転載された「『智惠子抄』が世に出るまで」と題する小文において、「D氏は数ケ月かかつてB夫人に関する一切の資料をまとめ上げて本になるばかりにしてAの下へ持つていつた。Aはあずかつておくといつて、一年たつても二年たつても何の返事もない。……Aは、D氏の集めた詩篇の中から余計なものを除いてBの像を彫り上げていつた。「こつぱは突込むな」といいながら、
惜し気もなく捨てるものは捨ててしまつた。これ以外のものは絶対に入れられない、というのがAの態度であつた。『詩集智惠子』とD氏がいうとAは即座に「いや『智惠子抄』にしよう。」といつて題名が決まつた。……こうして『智惠子抄』は世に出たのである。」との文章が載せられていることが認められる。右文章は、
その内容、体裁からして、被告の話を婦人朝日の記者がまとめたものを右「しおり」に転載する際被告が変更、訂正したものと推測されるところ、右文章中の「D氏は数ケ月かかつてB夫人に関する一切の資料をまとめあげて本になるばかりにしてAのもとへもつていつた。」との記載は、その後に続く「Aはあずかつておくといつて、一年たつても二年たつても何の返事もない。」という文章に照らすと、被告が第一次案をAの下へ持参し、交付したことを指すと解するのが合理的である。
そして、右に掲げた文章の後半部分は、Aが第一次案を素材として、「智惠子抄」に収録する詩及び散文等を取捨選択したことを余すところなく表現していると認められる。また、右甲第一三号証によると、「智惠子抄その後」に挿入された「しおり」には、「『智惠子抄』決定保存版について」と題する被告作成の小文が載せられているところ、右小文には、「A先生の死後、劇・映画・能・小説・全集もの・文庫本など、いろいろの形で『智惠子抄』が喧伝されていますが、先生が生前、御自身で厳密に校訂をされ、これ以上この内容を変更してはならない、と決めて上梓されたのは龍星閣版『智惠子抄』だけです。」との記載があることが認められる。
婦人朝日の文章及び右「しおり」の小文は、ともに多少の誇張があるものの、大筋において、「智惠子抄」を編集したのがAであることを示しており、これが被告自身の文章又は被告の話を基にした文章であることを考え合わせると、実際にも「智惠子抄」を編集著作したのがAであつたことを窺わせるものである。更に、成立に争いのない乙第五九号証によると、被告は、昭和三五年八月三一日第一刷発行の「光太郎智惠子」の「編集者附記」において、「『智惠子抄』を編集刊行した者が被告である。」と抽象的に主張するとともに、「『智惠子抄』のときは著者が内容の取捨を決め生と思われる若干の詩編を割愛した。そして読者が希望するB夫人の写真も、生なものとして「智惠子抄」にいれることを退けた。」と記載したことが認められる。右にいう「著者」とは、Aのことを指すことが明らかであるから、被告は、自分が「智惠子抄」の編集をしたと主張する一文の中で、実際の「内容の取捨」、「若干の詩篇の割愛」をしたのがAであることを認めていることになる。このことも、「智惠子抄」の編集を行つたのがAであることを示している。
また、「智惠子抄」に収録された各作品の制作年月日又は制作年月を、「道程」から収録された各詩を除いて、すべてAが確定したことは、当事者間に争いがない。「智惠子抄」の詩の配列は、前記のとおり「荒涼たる歸宅」を除くとすべて制作年月日又は制作年月順になつていることが明らかであり、その配列は各詩の内容感によつたというよりも、制作年月日順の原則に従つたと考える方が合理的である。Aは、従前から、詩集の構成については制作年月日順を原則としていたことが被告の主張自体からも明らかであるから、一編を除いて制作年月日順に並べられた「智惠子抄」の詩の配列、構成は、Aが決定したとする方がより理解しやすいし、
Aが「道程」から収録した詩以外の各詩の制作年月日を確定したという事実ともよく整合する(なお、成立に争いのない乙第三号証、被告本人尋問の結果(第一、二回。ただし前記信用しない部分を除く。)によると、被告が編集著作したと主張する「智惠子抄その後」における散文の配列は、制作年代順ではなく、季節順になつていることが認められる。)。前掲乙第二五号証の六によると、短歌については、
「うた六首」の自筆原稿が残されており、右原稿の短歌の配列と「智惠子抄」における短歌の配列とが一致しているから、Aが短歌の配列を決定したと考えるのが素直である。
「智惠子抄」の題名については、前掲した「婦人朝日」の文章に「『詩集智惠子』とD氏がいうとAは即座に『いや「智惠子抄」にしよう』といつて題名が決まつた。」との記載があるところ、右文章は、題を決めたのがAであることを記載していると解するのが文理に沿うものである。前掲甲第五二号証によると、Aは、昭和一六年六月二二日付けの手紙で、被告に対し、「智恵子抄」の題名を連絡していることが認められるが、これは、題を決めたのがAであるとする右文章を裏付けるものであると認められる。
以上の事実及びその評価に照らすと、前記第一、二2(一)の被告の供述は信用できず、この点に関する被告の主張は採用できない。
3 被告は、抗弁等2(二)記載のとおり種々の事実をあげて「智惠子抄」を編集著作したのがAではなく被告である旨主張している。しかし、被告のあげる各事実は、いずれも、以下のとおり「智惠子抄」の編集著作者が被告であることを裏付けるものではない。
(一) Aが白玉書房版「智惠子抄」の巻末に「記」と題する文章を書き、その冒頭で、「亡妻Bに關する私の三十餘年間の詩歌を集めて一冊にまとめ、『智惠子抄』と名づけて上梓、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人D氏であつた。」と記したことは、当事者間に争いがない。被告は、右「記」の文章をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことの証左であると主張する。しかし、右文章は、「詩歌を集めて一冊にまとめ」と記すのみで、「智惠子抄」の編集が具体的にどのような形でされたかを明らかにするものではない。また、前記第二、一2で認定した「智惠子抄」の編集経過を考慮すると、被告のした行為を編集著作行為とみるかどうかはともかくとして、Aは、「智惠子抄」の企画、編集、出版に大きな功績があつた被告に対し、深く感謝していたことが推認できるうえ、前掲乙第二号証によると、Aは、右文章に続けて、「今度あたらしく白玉書房をはじめられるQ氏はD氏の快諾を得て、「智惠子抄」の再出版を企てられ……」と記していることが認められ、更に、成立に争いのない乙第二七号証の一六によると、Aは、Qあての昭和二二年二月九日付け手紙で、「『智惠子抄』の出版をDさんが貴下に譲られることを承諾せられたやうで、小生としては少しも異存ありません。」と述べていることが認められる。右各事実によると、Aは、「智惠子抄」の出版を許諾されていた被告が、Qに対し、白玉書房版「智惠子抄」の出版を快諾したことにより、
その出版が可能になつたと考えていたものであり、右「記」の文章は、Aが、「智惠子抄」の企画、編集、出版に功績があり、かつ、白玉書房版「智惠子抄」の出版を快諾した被告に対する感謝の気持ちを明らかにしたにすぎないものであると考えるのがむしろ合理的であるから、右「記」の文章が誤つているか否かを論ずるまでもなく、「詩歌を集めて一冊にまとめ」という一片の文言をとらえて、被告が「智惠子抄」の編集著作をした根拠とすることはできない。
(二) Aが昭和二五年一一月発行の「智惠子抄その後」の「あとがき」に、「先年『智惠子抄』を初めて世に送つてくれた龍星閣主人D君が、今度は又、『智惠子抄その後』を略奪するような勢で出版する。」と記したことは、当事者間に争いがない。被告は、この「あとがき」の文章をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことを表しているものであると主張する。しかし、成立に争いのない乙第三号証によると、右文章は、「『智惠子抄』を初めて世に送つてくれた」という文章を受けて、「『智惠子抄その後』を……出版する」と記しており、それ自体としては、被告が「智惠子抄」を初めて出版したことを明らかにしているにすぎない。仮に、被告の主張どおり「智惠子抄その後」が被告の編集著作にかかるものであつたとしても、右文章をもつて、「智惠子抄」が被告の編集著作したものであることまで表現しているものであると解することはできない。
(三) 前掲甲第一三号証、乙第二七号証の一六、成立に争いのない乙第二六号証の三によると、Aが、昭和一九年七月五日、「智惠子抄」がドイツ向け放送をされることになつたのを機に、被告に対して、「貴下のおかげでBは、日本中の女性に愛慕せられ、またAB的男女関係は多くの共感者を得ました。」との感謝の言葉を書き送つたこと、Aが、「『智惠子抄』の出版をDさんが貴下に譲られることを承諾せられたやうで、小生としては少しも異存ありません。『智惠子抄』は、Dさんの並々ならぬ熱意によつて世上に広く紹介されたので小生Dさんにはひどく感謝してゐる次第です。」との手紙をQに書いたことがそれぞれ認められる。
右事実に照らせば、Aが智惠子抄の出版について、被告に心から感謝していたことが認められる。
ところで、被告は、右のようなAの感謝の気持をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことの根拠となると主張する。しかし、前掲甲第一三号証によると、
「智惠子抄」を編集著作したのが誰であるかは暫く措き、Aが「智惠子抄」の出版を決意するについては、被告の働きかけが大きく作用したものであり、被告の熱心な勧めがなければ「智惠子抄」が日の目を見ることはなかつたことが認められることに加えて、被告の勧めで出版された「智惠子抄」が空前の売れ行きを示し、いわばベストセラーになつたこと(この点は被告も自認している。)を考慮すると、Aは、被告の行為が「智惠子抄」の編集著作行為と評価すべきものではなかつたとしても、「智惠子抄」について、被告に対し、他の人にするのとは全く違つた対応をする可能性が十分にあつたと認められる。しかも、前記Qあての手紙には、「『智惠子抄』の出版をDさんが貴下に譲られることを承諾せられたやうで」とあり、むしろ、Aが被告を、「智惠子抄」の出版者としてのみ考えていたのではないかと推測させる部分も存するから、前記のようなAの被告に対する態度をもつて、被告が「智惠子抄」の編集著作したことの根拠とみることはできないというべきである。
(四) 被告は、Aの昭和一六年九月一八日付け訴外Pあての葉書に、「今夏はひどく健康を害し、殆と何も出来ず、舊稿整理などで過ごしてしまひました。」と書きながら、右葉書を出す直前に出版された「智惠子抄」について全く触れていないことは、Aが「智惠子抄」の編集に積極的にはかかわらなかつたことを物語ると主張する。しかし、ある作品の著者が、右作品の出版に近接して知人等に葉書又は手紙を出す場合に、必ずその中で右作品のことに触れるとは限らないし、前掲甲第八号証の一、二、第一三号証、成立に争いのない乙第五六号証によると、Aは、「智惠子抄」について、日ごろから「恥ずかしい」、「Bを売り物にしたくない」と考えていたことが認められるから、右Pあての葉書に「智惠子抄」のことが触れられていなかつたとしても、何ら異とするに足りず、これをもつて、Aが「智惠子抄」の編集に関与しなかつたとの根拠とすることはできない。
(五) 被告は、第三者が「智惠子抄」を出版しようとした際、Aは必ず被告の意向を尊重し、これに従つていたものであり、右事実は、被告が「智惠子抄」を編集したことを裏付けるものであると主張する。しかし、Aが、被告に対し、「智惠子抄」の出版許諾をしていたことは当事者間に争いがなく、右事実によると、「智惠子抄」の編集著作が被告によつてされたか否かにかかわらず、Aが他の出版社に「智惠子抄」出版の許諾を与える際、被告の意向を尊重することは当然であり、更に、被告が「智惠子抄」の出版に多大な貢献をし、Aが深く被告に感謝していたことは前記第一、二3(三)のとおりであるから、被告が「智惠子抄」の編集著作者でなかつたとしても、Aが第三者の「智惠子抄」出版の動きに対し、被告主張のような態度を取つたことに何の不思議もなかつたというべきである。したがつて、Aのこのような態度をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことの裏付けとすることはできず、この点に関する被告の主張は理由がない。
(六) 前掲甲第三〇号証の一、二によると、被告が、Aあての昭和二四年一二月二四日付け手紙で「智惠子抄その後」の編集の許可を求め、その中で、「『智惠子抄』は地獄と錬獄でありましたが、今度天国篇が出来上つたもので、之で私達の『神曲』が完成致しました。
」と書いたことが認められる。被告は、これも「智惠子抄」を編集著作したのが被告であることを示すものであると主張する。しかし、前記第一、二1のとおり、被告は、昭和一四年三月ころから昭和一六年六月ころまで、種々Aを説得し、自ら資料を収集するなどして、Aから「智惠子抄」の出版許諾を受け、自らの手でこれを発行し、これをベストセラーにしたことが認められるから、被告が「智惠子抄」の編集著作でなかつたとしても、「智惠子抄」に対して強い愛着を抱いていたと推認される。右のような被告の感情、「智惠子抄」に対する関わり合いからすれば、被告が「智惠子抄」の編集著作者でなかつたからといつて、右のような手紙をAに出したことが理解できないものではなく、Aも、右手紙に対して異論を挾む必要もなかつたであろうと考えることができる。そうすると、右手紙をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことを示すものであるとすることはできないというべきである。
よつて、この点での被告の主張も理由がない。
(七) 成立に争いのない甲第三一号証の一、二、乙第二七号証の四、被告本人尋問の結果(第一、二回。)により真正に成立したことが認められる乙第二九号証の六によると、被告が昭和二五年一〇月五日付けAあて手紙の中で、「智惠子抄」について、「正当な場所に還して頂き、私が改装新版して出すのが本当と思います。」と書いていることが認められる。被告は、右文章をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことの根拠となると主張する。しかし、右各証拠及び前掲甲第一号証の二、乙第二号証、成立に争いのない甲第三二号証の一、二によると、被告は、Aから「智惠子抄」の出版を許諾されていたが、戦時中、一時出版活動を休止していたこと、その間の昭和二二年一一月二五日、Qによつて、白玉書房版「智惠子抄」が発行されたこと、被告は、戦後出版活動を再開し、自ら「智惠子抄」を改装して新版として出版しようとしたが、右のとおり白玉書房版「智惠子抄」が出版されたという経過があつたので、Aから「智惠子抄」新版の出版許諾を得る目的で右手紙を書いたこと、右手紙には、「『智惠子抄』は私が休養中、『他の出版社が譲り受け』とあるところは、小生が金銭をとつて出版權を賣つたかのようにうけとられる……」と記載されていたこと、Qは右のように白玉書房版「智惠子抄」の出版をしたものの、昭和二五年ころには既にその出版をやめていたことがそれぞれ認められる。右経過及び前記認定の被告の「智惠子抄」への関与にかんがみれば、
「正当な場所に還して頂き……」とは、右の手紙が出された当時にはQが白玉書房版「智惠子抄」の出版をしていない以上、Aから最初に出版許諾を受けた被告が「智惠子抄」を出版するのが正当である旨を述べたにすぎず、被告が「智惠子抄」を編集著作したことを主張している趣旨と解することはできない。したがつて、この点での被告の主張も理由がない。
(八) 前掲甲第一号証の一ないし三、乙第一、第二号証によると、被告が昭和二六年二月、「智惠子抄」を再度出版したこと、このとき被告が、白玉書房版「智惠子抄」に新しく付け加えられていた「松庵寺」及び「報告」の二編の詩を削除したことが認められる。被告は、右事実をもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことを裏付ける一つの事実であると主張する。しかし、被告本人尋問の結果(第一、二回。ただし、前記措信しない部分を除く。)によると、被告が右二編の詩を削除するについては、右二編の詩を加えると「智惠子抄」が壊れてしまうので削除したい旨の意見を、事前にAに具申し、Aの同意を得ていたことが認められるのであつて、被告がAの意思と無関係に右二編の詩を削除したわけではないことが明らかである。そうすると、被告が再度「智惠子抄」を出版した際、右二編の詩を削除したことをもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことを裏付けるものとすることはできない。したがつて、この点での被告の主張も理由がない。
(九) 被告は、Aの生前から、「智惠子抄」の出版を企画した第三者に対し、自分に「智惠子抄」の「版権」があること、「智惠子抄」が被告の独自の出版創作にかかることなどを主張して、「智惠子抄」出版の中止を要求し、Aもこれに協力していたと主張する。しかし、本件全証拠によるも、Aが死亡した昭和三一年四月二日以前に、被告が第三者に対し「智惠子抄」を編集著作したと主張していたこと、
Aがこれを知つて是認していたことは、これを認めるに足りない。すなわち、成立に争いのない乙第四、第五号証の各一によると、被告が昭和二八年七月二八日付けの角川書店あて内容証明郵便及び同年一〇月二〇日付けの創元社あて内容証明郵便において、被告が「版権」を有している旨述べていることが認められる。しかし、
右証拠及び成立に争いのない乙第六号証によると、被告は、右角川書店あて内容証明郵便において、「『智惠子抄』は小生に於いて版權を頂いて居るもので」と述べ、また、Aの死亡後、昭和四〇年五月一一日付けの河出書房あて内容証明郵便において、「(「智惠子抄」の)編集著作権は版權者でもある龍星閣主人Dに属するものです。」と述べていることがそれぞれ認められ、これによると、被告が、Aの死亡以前において、「版権」なる言葉を著作権と同意義で用いていたとするのは甚だ疑問であり、むしろ、「版権」を出版権又は出版許諾にかかる権利という意味で用いていたのではないかと推測される。現に、《証拠略》によると、被告は、「智惠子抄その後」の「あとがき」の文章について、昭和二五年一〇月五日付けのAあて手紙に、「『智惠子抄』は私が休養中『他の出版社が譲りうけ』とあるところは、小生が金銭をとつて出版權を賣つたかのようにうけとられるおそれが御座いますので」と書いており、右推測を裏付けている。そうすると、前記角川書店あて及び創元社あての各内容証明郵便において、被告が、「智惠子抄」の「版権」を有していると述べていたとしても、これをもつて、第三者に対する編集著作権の主張であるとするのは、即断にすぎるというべきである。
また、前掲乙第五号証の一、二によると、被告が、前記の創元社あて内容証明郵便において、「『智惠子抄』は『道程』その他の詩集より構成した独自の出版創作であり」と書いていることが認められるけれども、「出版創作」の意味が必ずしも明らかでないうえ、右文章の表現を素直に読むと、被告により「智惠子抄」が出版創作されたことまでを表現しているとは解されない。
そして、他にこの点での被告の主張を認めるに足りる証拠は存在しない。
(一〇) 「智惠子抄」について、昭和二六年ころまで、いわゆる「お礼制度」又は「寸志制度」が取られていたことは、当事者間に争いがない。被告は、右事実をもつて、「智惠子抄」が被告の編集著作にかかることを示すものであると主張する。そして、前掲甲第八号証の一、二及び第一三号証によると、Aは、「智惠子抄」の出版当初、被告が印税の支払を申出たのに対し、「君が発見し、君が作つた本だから君のものだ。印税など考えてくれるな。」と言つて、印税を受取らなかつたことが認められる。しかし、前述した「智惠子抄」の編集著作の経過に照らせば、Aが「智惠子抄」の出版について、被告に深く感謝していたことが推認されるし、他方、右各証拠によると、Aは、「Bを売り物にして恥ずかしい。」旨述べていたことが認められるのであつて、これらの事実によれば、Aが、「智惠子抄」の出版当初、被告から「智惠子抄」の印税を受取るつもりがなかつたこと及び被告に対する感謝の念を表すため、多少事実を誇張して「君が作つた本だから君のものだ。」と述べたことも、「智惠子抄」の編集著作者の態度として、十分に了解可能であり、これらの事実とAが「智惠子抄」を編集著作したこととの間に何ら矛盾はない(右各証拠も、前記第一、二2(二)のとおり全体を通読すれば、実際の編集著作行為をしたのがAであることを示していることが明らかである。)というべきである。しかも、成立に争いのない甲第九、第一〇号証の各一、二、第一二号証の一ないし四、第一六号証の二によると、Aが、「印税」というかどうかはともかくとして、被告から受領した「お礼」又は「寸志」を「智惠子抄」の著作権使用料と考えていたことが窺われるのであつて、これらの事実に照らせば、「智惠子抄」について「お礼制度」ないし「寸志制度」が取られていたことをもつて、被告が「智惠子抄」を編集著作したことの論拠とすることはできない。したがつて、この点での被告の主張も理由がない。
(一一) Fが、「出版ニユース一九五〇年一一月号」に、「『道程』もAさんが編んだものではない由き々及んでゐるが、もしもさうなら氏の何十年かの詩作の生涯で、Aさんは自らは一冊の詩集も編纂してゐない。」との文章を書いたことは、
当事者間に争いがない。被告は、右文章をもつて、「智惠子抄」を編集著作したのがAではないことの根拠となると主張する。しかし、Fが「智惠子抄」の編集経過を正確に把握していたことは本件全証拠によるもこれを認めるに足りないし、Aの白玉書房版「智惠子抄」の「記」の文章や、前述した「君が発見し、君が作つた本だから君のものだ。」などという言動に代表されるAの態度に照らせば、Fが、
「智惠子抄」の編集経過を十分認識しないで、右のような文章を書いたと考えることにも合理性があると認められるのであつて、右文章をもつて、「智惠子抄」の編集著作をしたのがAでなく、被告であることの根拠とするには不十分である。よつて、この点での被告の主張も理由がない。
(一二) 被告は、Aが、もともと詩集を出すことに積極的でなく、詩集を編集した場合であつても、詩の配列は制作年代順に配列するのみで積極的な意味を持たせないという態度であつたから、多数の作品の中から、主題、対象を限定し、Bに関する作品を抽出してその生涯をまとめあげるなどの意識的な構想、作業を内容とする「智惠子抄」の編集を、Aが行つたとすることは不自然である旨主張する。しかし、Aが、被告から右のような構想を呈示され、かつ、種々説得を受け、昭和一五年一二月ころには第一次案を預けられた結果、ようやくその半年後に「智惠子抄」の編集を決意するに至り、「智惠子抄」が制作されたことは前記第一、二2(二)で認定したとおりであり、右経過によると、Aが、被告主張のような構想に基づき、意識的に作品を収集、取捨選択し、配列を決定したとすることに何ら不自然な点はないというべきである。更に、前記第一、二2(二)のとおり「智惠子抄」の詩の配列は、制作年月日順を原則としているものであり、被告が主張する従前からのAの詩集の配列方法とも矛盾するものではない。そうすると、この点での被告の主張も採用し得ない。
(一三) 被告は、「智惠子抄」の収録詩と「道程」の収録詩が一三編にわたつて重複していることからすると、Aが「智惠子抄」を編集著作したと考えることには無理がある旨主張する。しかし、右(一二)のとおり、「智惠子抄」は、Aが、Bの生涯をまとめあげるという構想の下に、被告から第一次案の呈示を受けて編集著作したものであるから、「道程」などの詩集中から右構想に沿つてBに関する詩を「智惠子抄」に採録したと考えることに何らの不自然さもないというべきである(成立に争いのない甲第一七号証の一、二によれば、Aが、他の詩集に収録されている詩を、重複して別の詩集に収録することもあることが明らかである。)。したがつて、この点での被告の主張も採用し得ない。
(一四) 被告は、詩「深夜の雪」が、Aの意思で、「智惠子抄」と同時に出版された「道程」(改訂版)に収録されなかつたところ、「智惠子抄」にはこれが収録されているから、右詩が「智惠子抄」に収録されたのは、被告の意思によると考えざるを得ず、したがつて、右詩が「智惠子抄」に収録されていることは、「智惠子抄」がAの編集著作によるものでないことを示すものである旨主張する。しかし、
仮に、詩「深夜の雪」がAの意思で「道程」(改訂版)に収録されなかつたとしても、前掲甲第一号証の一及び三によると、詩「深夜の雪」の内容が時局柄公表をはばかられて削除されたというものではないと認められるから、「道程」(改訂版)とは別の構想により編集された「智惠子抄」に、Aがこれを採録したとしても不自然ではない。逆に、Aが右詩を詩集に採録したくないとすれば、「智惠子抄」の場合も右詩の著作者としてその採録を拒絶したはずであり、これが採録されたことはむしろAの意思が介入していることの証左と解することも可能である。したがつて、この点での被告の主張も理由がない。
(一五) 被告は、以上にあげたほか、種々の事実をあげて、「智惠子抄」を編集著作したのがAではなく、被告である旨主張するが、被告のあげる事実はいずれも前記認定を左右するものではないというべきである。
4 次に、被告は、第一次案はそれ自体で一つの編集著作物に当たり、「智惠子抄」は、第一次案に依拠しているので、「智惠子抄」の編集著作者は被告である旨主張する。しかし、前掲甲第一号証の一ないし三及び被告本人尋問の結果(第一、
二回。ただし、前記信用しない部分を除く。)によると、第一次案は、別紙付表Tの各作品を同表のとおり配列したものであること、第一次案では、「道程」から採録した各詩については、「道程」に掲載された順に、雑誌に掲載された各詩については、その雑誌の発行年月順に、同一の雑誌に掲載された各詩についてはその掲載順に配列されたこと、「樹下の二人」及び「あなたはだんだんきれいになる」の二編の詩については、題名だけが「内容順序表」に載せられていてその内容が不明であつたことが認められるのであつて、第一次案にAとBの結婚生活の期間である大正三年から昭和一三年までの作品の多くが欠けていたことは暫く措くとしても、第一次案は、客観的にみれば、単なる素材というべきものであり(Aも、これを素材として扱つていたこと前記第一、二2(二)のとおりである。)、前記のように、
Bの生涯をまとめあげるため、Bに関する作品を集めて制作年月日順に配列した「智惠子抄」とは似て非なるものであり、「智惠子抄」が、第一次案の複製物又は翻案物であるということは到底できない。よつて、この点での被告の主張は理由がない。
5 以上の次第で、「智惠子抄」の編集経過は、前記第一、二1のとおりであり、
前記第一、二2ないし4で被告が主張する事実は、いずれも右認定を左右するに足りないし、他に右認定を覆すに足りる資料・証拠はない。
そして、右「智惠子抄」の編集経過に照らせば、「智惠子抄」を編集著作したのは、Aであると認められる。
三 被告が、昭和四〇年六月一四日付けで本件登録をしたことは、当事者間に争いがない。成立に争いのない甲第二号証、第六、第七号証、弁論の全趣旨により真正に成立したことが認められる甲第五号証、第二五号証によると、Aは、昭和三一年四月二日死亡し、亡Mが「智惠子抄」の編集著作権及び「智惠子抄」を構成する各詩文等の著作権を相続により取得したことが認められる。また、昭和四七年六月二日亡Mの死亡により亡Nが右各権利を相続により取得し、次いで、昭和五八年七月二〇日、同人死亡により、原告が右各権利を相続取得したことは、本件記録上明らかである。
四 被告は、旧法15条3項の著作年月日登録(以下、「著作年月日登録」という。)は、同法35条5項によつて、その著作年月日が推定されるという効果を有するにとどまり、著作権者を公示するものでもなければ、著作者を法律上推定させる効果を有するものでもなく、また、著作年月日登録は、著作者のみがすることができるのであるから、著作権の承継人にすぎない原告はその抹消登録手続を求めることができないと主張する。
ところで、著作年月日登録の効果は、新法付則12条、旧法35条5項の規定により、登録された著作年月日が著作の年月日と推定されるというにとどまらず、著作登録簿に著作者として表示されている者が、著作者として事実上推定されるものである。更に、旧法施行令付則5条により、著作年月日登録がされている著作登録簿が新法における著作権登録原簿とみなされるところ、新法施行規則別記様式第六4〔備考〕2、同様式第3〔備考〕6によると、著作権者が著作権の登録(新法77条)をする場合には、前登録の年月日及び登録番号を記載することが要求されているから、右著作登録簿に記載された内容と齟齬する内容の著作権登録申請は、これを拒絶されるおそれが存する。このように、真実の著作者以外の者の名義により著作年月日登録がされる場合には、これによりその著作物の著作権者は、円満な著作権の行使を制約されることになる。したがつて、著作権者は、その有する著作物について、真実の著作者以外の第三者が自分を著作者と表示して著作年月日登録をした場合には、その第三者に対して、当該著作年月日登録の抹消登録手続を求めることができるというべきである。
これを本件についてみるに、前記のとおり、被告は、「智惠子抄」について、編集著作者でないのに自分が編集著作者であるとする本件登録(著作年月日登録)をしたものであるから、数次の相続を介してAから「智惠子抄」の編集著作権を取得した原告は、被告に対し、本件登録の抹消登録手続をすることを求めることができる。
そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告の「智惠子抄」の編集著作権に基づく被告に対する本件登録の抹消登録手続請求は理由があると認められる。
本訴差止請求について
一 「智惠子抄」がAの編集著作にかかること、原告が相続により「智惠子抄」の編集著作権を取得したことは、前記第一で認定したとおりであり、引受参加人が「智惠子抄」の出版を継続していることは、当事者間に争いがない。
二 引受参加人は、抗弁として、Aが、被告に対し、「智惠子抄」出版の許諾をしたものであり、かつ、引受参加人が被告の出版事業を承継して設立されたものであるから、引受参加人には「智惠子抄」を出版する権利があり、原告は、これを差止められないと主張する。
Aが、被告に対し、「智惠子抄」出版の許諾をしたことは、当事者間に争いがなく、被告本人尋問の結果(第一、二回。ただし、前記措信しない部分を除く。)及び弁論の全趣旨によると、引受参加人は、昭和四三年一二月四日に被告の個人出版事業を法人化した会社にすぎず、実質上被告を引き継いだ者であるところ、このような者に対しては、被告が「智惠子抄」出版の再許諾をしうる権限をAから付与されており、被告は、引受参加人の設立と同時に「智惠子抄」の出版の再許諾をしたと認められ、右事実によると、引受参加人は、原、被告間の出版許諾契約が存続する限り、「智惠子抄」の出版をすることができるというべきである。
したがつて、被告の抗弁は理由がある。
三 原告は、亡Mが昭和四一年一〇月七日付けの被告あて書面で、右出版許諾契約を解約し、これによつて同契約が終了したと主張するので、以下この点について検討する。
1 被告本人尋問の結果(第一、二回。ただし、前記措信しない部分を除く。)、
前掲甲第一三号証及び成立に争いのない乙第二二号証の一によると、右出版許諾は、Aが「智惠子抄」の編集著作権者及び「智惠子抄」を構成する各詩文等の著作権者としてした期間の定めのない非独占的な出版許諾であると認められる。すなわち、「智惠子抄」の出版に当たつて、Aと被告との間で何らかの条件が取決められたことを窺がわせる証拠はなく、むしろ右各証拠によると、「智惠子抄」出版前には、被告とAとの間で、印税などの支払を含めて出版に関する条件の取決めを一切しなかつたことが認められる。もつとも、成立に争いのない乙第二七号証の九、一〇、一二及び一四、第二九号証の一四並びに第三二号証の二ないし五によると、Aは、第三者が「智惠子抄」の出版を企画した際、被告の要望を入れて、その中止などを第三者に申入れたことが認められるけれども、これは、「智惠子抄」出版の経過に照らし、Aが被告に深く感謝していたことによると考えることができ、右事実をもつて、Aが、「智惠子抄」について、被告に出版権の設定をし又は独占的な出版許諾をしていたとは認めるに足りないものである。
2 亡Mが、昭和四一年一〇月七日付けの被告あて書面で、Aのした「智惠子抄」出版の許諾を解約する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。成立に争いのない甲第四号証の一、二によると、右解約申入れは、被告が「智惠子抄」について、「智惠子抄」の当時の著作権者である亡Mに無断で本件登録をしたことを理由とするものであることが認められる。そして、被告が亡Mに無断で本件登録をしたことは、当事者間に争いがない。右被告の行為は、亡Mが有する「智惠子抄」の編集著作権を否定する行為と同視すべきものであり、これのみを取り上げても、
亡Mに対する背信行為であるというべきである。
3 更に、現在、被告を引き継いだ引受参加人において「智惠子抄」の出版をしていること及び被告が昭和四〇年八月以降「智惠子抄」に関して「寸志」の支払をしていないことは、当事者間に争いがない。前記のとおり、Aが被告に「智惠子抄」の出版許諾をした際、印税の支払などについては一切取決めをせず、かえつて、当初被告がその支払をしようとしたのに対し、Aがその受領を拒絶したことが認められるけれども、他方、前掲甲第九、第一〇号証の各一、二、第一三号証、成立に争いのない甲第一二号証の一ないし四、乙第二八号証の一、三ないし五、乙第七一号証の一ないし七、被告本人尋問の結果(第一、二回)により真正に成立したことが認められる乙第二九号証の一八、一九、被告本人尋問の結果(第一、二回。ただし、前記信用しない部分を除く。)によると、被告は、「智惠子抄」の第三刷時に、Aに「お礼」の支払を申入れてその承諾を得、爾後昭和四〇年八月までAないし亡Mにその支払を続けてきたこと、被告が昭和二六年五月一四日付けのAあて書簡において、印税に関し、定価の一割から二分の税金を控除した残額を支払う旨述べていること、Aから「智惠子抄」の編集著作権及び「智惠子抄」を構成する各詩などの著作権を相続した亡Mは、右「お礼」の支払を前提として、被告が「智惠子抄」の出版をすることを承認していたものであり、被告もこれを了知しうる状況にあつたことが認められるのであつて、右事実に照らすと、少なくとも、亡Mが著作権を相続してからは、被告には、定価の八分の著作権使用料を亡Mに支払う義務が存したと認めることができる。この著作権使用料の不払も、「智惠子抄」の編集著作者である亡Mに対する重大な背信行為であるというべきである。
4 以上の次第で、亡Mのした出版許諾契約の解約申入れには正当な理由があり、
右解約申入れから二〇年以上経過した現在においては、右出版許諾契約は右解約申入れにより終了していると認められる。
5 ところで、被告は、本件登録をしたことは「智惠子抄」の編集著作権者として当然の行為であり、「寸志」の支払をしなかつたのも、亡Mが、被告の送付した「寸志」の受領を拒絶して送り返し、かつ、第三者に対する「智惠子抄」の偽作版の出版許諾を強行したことによるものであつて、「智惠子抄」の出版許諾の解約について正当な理由はない等るる主張する。しかし、被告が「智惠子抄」の編集著作権者でないことは前記第一で認定したとおりであり、また、前記二、三1のとおりAと被告との間の「智惠子抄」出版に関する契約が、非独占的な出版許諾であることに照らすと、亡Mないし原告が「智惠子抄」の出版を第三者に許諾したからといつて、これを債務不履行ないし背信行為と評価することはできないというべきである。更に、成立に争いのない甲第一一号証、乙第四二号証及び第六三号証の一ないし三によると、亡Mが被告の送付した「お礼」の受領を拒絶し、これを返却したのは、当時被告と新潮社との間で紛争が生じていたことから、亡Mが、紛争解決まで一応返却するという趣旨であつたこと、被告と新潮社との紛争は、昭和四〇年末までには解決して仮処分申請が取り下げられたことが認められる。右事実によると、
被告が「お礼」を支払わないことに正当な理由があるとはいえず、その不払は亡Mに対する背信行為であるということができる。
また、被告及び引受参加人は、「智惠子抄」の編集著作権又は持分二分の一の共同編集著作権を被告が有することを前提として、原告の差止請求が権利の濫用に当たるなどと主張する。しかし、被告が「智惠子抄」の編集著作権又は持分二分の一の共同編集著作権を有しないことは前記認定のとおりであるから、右被告の主張は、いずれも理由がない。
以上の次第で、原告の引受参加人に対する差止請求は、理由があるというべきである。
反訴について
反訴請求は、被告が「智惠子抄」の編集著作権又は持分二分の一の共同編集著作権を有することを前提にするところ、前記第一のとおり、被告が「智惠子抄」の編集著作権又は持分二分の一の共同編集著作権を有することは、本件全証拠によるもこれを認めるに足りないから、その余の点について判断するまでもなく、反訴請求は理由がない。
結論
よつて、原告の本訴請求はすべて理由があるからいずれも認容し、被告の反訴請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用及び引受参加の費用の負担について民事訴訟法89条93条1項を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 安倉孝弘 小林正 若林辰繁)別紙 第一表1 人に2 或る夜のこころ3 おそれ4 或る宵5 郊外の人に6 冬の朝のめざめ7 深夜の雪8 人類の泉9 僕等10 愛の嘆美11 晩餐12 樹下の二人13 狂奔する牛14 鯰15 夜の二人16 あなたはだんだんきれいになる17 あどけない話18 同棲同類19 美の監禁に手渡す者20 人生遠視21 風にのる智惠子22 千鳥と遊ぶ智惠子23 値ひがたき智惠子24 山麓の二人25 或る日の記26 レモン哀歌27 荒涼たる歸宅28 亡き人に29 梅酒 ○ (以上詩二九編)30 うた六首31 智惠子の半生32 九十九里濱の初夏33 智惠子の切抜繪 ○ (以上散文三編)<03245-001><03245-002><03245-003><03245-004><03245-005><03245-006><03245-007><03245-008><03245-009><03245-010><03245-011><03245-012><03245-013><03245-014>
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