• この表をプリントする
  • ポートフォリオ機能


追加

関連ワード 著作物性 /  創作性 /  独自性 /  著作者 /  言語の著作物 /  音楽の著作物 /  結合著作物 /  二次的著作物 /  翻案 /  実演家 /  同一性 /  類似性 /  レコード /  レコード製作者 /  放送 /  放送事業者 /  共同著作物 /  録音 /  著作者人格権 /  氏名表示権 /  同一性保持権 /  複製権 /  ビデオ /  引用 /  ライセンス /  テレビジョン放送 /  損害賠償 / 
元本PDF 裁判所収録の全文PDFを見る pdf
元本PDF 裁判所収録の別紙1PDFを見る pdf
事件 平成 12年 (ネ) 1516号 各損害賠償請求,著作権確認請求控訴事件
控訴人 A
控訴人 有限会社金井音楽出版
両名訴訟代理人弁護士 井上 準一郎
同 山根祥利
同 佐藤隆男
同 近藤健太
同 的場 美友紀
同 原山邦章
被控訴人 B
訴訟代理人弁護士 神谷信行
同 朝日純一
同 山之内 三紀子
同復代理人弁護士 西畑博仁
裁判所 東京高等裁判所
判決言渡日 2002/09/06
権利種別 著作権
訴訟類型 民事訴訟
主文 1 原判決主文第1項を次のとおり変更する。
(1) 被控訴人は、控訴人Aに対し、600万円及びこれに対する平成13年12月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2) 被控訴人は、控訴人有限会社金井音楽出版に対し、339万0412円及びこれに対する平成13年12月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 控訴人らのその余の請求をいずれも棄却する。
2 原判決主文第2項に関する控訴人Aの本件控訴を棄却する。
3 訴訟費用は、控訴人Aと被控訴人との間においては、第1、2審を通じて2分し、その1を同控訴人の、その余を被控訴人の各負担とし、控訴人有限会社金井音楽出版と被控訴人との間においては、第1、2審を通じて5分し、その3を同控訴人の、その余を被控訴人の各負担とする。
4 この判決は、主文第1項の(1)及び(2)に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
当事者の求めた裁判
1 控訴人ら (1) 原判決を取り消す。
(2) 被控訴人は、控訴人A(以下「控訴人A」という。)に対し、1000万円及びこれに対する平成13年12月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 被控訴人は、控訴人有限会社金井音楽出版(以下「控訴人金井音楽出版」という。)に対し、814万1599円及びこれに対する平成13年12月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。(注、内金321万円及びこれに対する平成10年9月24日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を求める部分を超える請求は、当審で拡張したものである。) (4) 被控訴人の控訴人A対する反訴請求を棄却する。
(5) 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
(6) 上記(2)及び(3)につき仮執行宣言 2 被控訴人 (1) 控訴人らの本件控訴及び控訴人金井音楽出版の当審で拡張した請求をいずれも棄却する。
(2) 当審における訴訟費用は控訴人らの負担とする。
事案の概要
本件は、別紙1の楽譜一記載の歌曲(以下、歌詞付きの楽曲として「歌曲」の用語を用いる。)「どこまでも行こう」に係る楽曲(以下「甲曲」という。)の作曲者である控訴人Aびその著作権者である控訴人金井音楽出版が、別紙2の楽譜二記載の歌曲「記念樹」に係る楽曲(以下「乙曲」という。)の作曲者である被控訴人に対し、乙曲は甲曲を編曲したものであると主張して、控訴人Aおいて著作者人格権(同一性保持権及び氏名表示権)侵害による損害賠償を、控訴人金井音楽出版において著作権(編曲権)侵害による損害賠償をそれぞれ求め、他方、被控訴人が、控訴人Aに対し、反訴請求として、乙曲についての著作者人格権を有することの確認を求めた事案である。
控訴人らは、原審においては、複製権侵害の主張をしたものであるが、控訴人らの本訴請求をいずれも棄却し被控訴人の反訴請求を認容した原判決に対して控訴するとともに、編曲権(なお、控訴人らは準備書面等において「翻案権」との用語を用いているが、甲曲及び乙曲は楽曲に係る音楽の著作物であるところ、著作権法が、2条1項11号において、楽曲にのみ特有の「編曲」を「翻訳」、「変形」及び「翻案」と並んで二次的著作物の創作態様として規定した上、27条において、「編曲権」を「翻案権」等とともに著作者の排他的な権利の一つとして規定していることにかんがみ、控訴人らのいう「翻案権」は「編曲権」の趣旨にほかならないものと解されるので、以下、この表記による。)侵害の主張を追加し、複製権侵害の主張を撤回したものであり、また、控訴人金井音楽出版が当審において請求を拡張した。
1 前提となる事実 (1) 控訴人A(昭和7年生)は、昭和41年、別紙1の楽譜一記載の歌曲「どこまでも行こう」を作詞・作曲して、その歌詞及び楽曲(甲曲)の各著作物について著作権及び著作者人格権を取得した。この歌曲は、ブリヂストンタイヤ株式会社(現商号・株式会社ブリヂストン、以下「ブリヂストン」という。)のテレビコマーシャルにおいてCが歌唱する形でそのころ公表されたものである。控訴人Aは、
昭和42年2月、甲曲の編曲権を含む著作権をその歌詞に係る著作権とともに控訴人金井音楽出版に譲渡し、控訴人金井音楽出版は、同月28日、社団法人日本音楽著作権協会(以下「協会」ということがある。)に対して、その作品届を提出し、
演奏権等を信託的に移転したが、編曲権は控訴人金井音楽出版に留保された。(甲1、2、28、29、41、54、114、118、乙1〔各枝番を含む。〕) (2) 被控訴人(昭和11年生)は、平成4年、別紙2の楽譜二記載の歌曲「記念樹」に係る楽曲(乙曲)を作曲した。この歌曲は、同年12月、Dを作詞者、Eを編曲者、株式会社ポニーキャニオン(以下「ポニーキャニオン」という。)をレコード製作者(原盤制作者)、「あっぱれ学園生徒一同」を歌手とする曲として、
「『あっぱれさんま大先生』キャンパスソング集」との題号のCDアルバムに収録される形でそのころ公表され、その後、株式会社フジテレビジョン(以下「フジテレビ」という。)及び関西テレビ放送株式会社(以下「関西テレビ」という。)を含むフジテレビ系列局で放送されているテレビ番組「あっぱれさんま大先生」及び「やっぱりさんま大先生」のエンディング・テーマ曲等として使用されているものである。平成4年12月ころ、被控訴人は乙曲についての著作権を、Dはその歌詞についての著作権を、それぞれ株式会社フジパシフィック音楽出版(以下「フジパシフィック」という。)に譲渡した。(当審における被控訴人本人、甲27、43の1、2、甲84、99、乙6〜9、12の3、検甲17) 2 主な争点 (1) 乙曲は甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているか。
(2) 乙曲は甲曲に依拠して作曲されたものか。
(3) 控訴人らの損害
主な争点に関する当事者の主張
1 争点1(表現上の本質的な特徴の同一性)について 1-1 控訴人らの主張 (1) 判断基準等について 本件において、楽曲に係る音楽の著作物としての表現上の本質的な特徴の同一性の判断に当たっては、旋律以外の要素、すなわち、和声、リズム、テンポ、
形式、雰囲気等の点は考慮の外に置かれなければならない。なぜなら、音楽は、創作性がある限り、旋律だけで原著作物として著作権が発生し、これを基に旋律以外の要素を変更した楽曲は二次的著作物となるからである。
そこで、甲曲の旋律の特徴について見るに、甲曲は、自然な旋律を用いながら、他にない旋律ラインを創作するという意図の下に作曲された楽曲であり、奇抜な旋律を用いていないものの、ありふれた陳腐な旋律ではなく、高度にユニークな創作的な表現である。甲曲の8小節、4フレーズの構成中、1〜2小節程度の長さの旋律において、これと同一又は類似するものが存在するとしてもやむを得ないことであるが、8小節の旋律ライン全体と同一又は類似する旋律ラインが存在することは、二次的著作物以外には現実的にあり得ない。
ところが、乙曲は、後述するとおり、その全体が甲曲と同一又は類似しており、被控訴人が変奏技術を用いて甲曲の旋律を借用し、その一部を変更して二次的に作曲した一種の変奏曲にほかならず、甲曲の編曲に係る二次的著作物である。
一般に、変奏曲とは、原曲の主題旋律を利用し、新たな創作性を付加した曲であり、そのすべてが原曲の複製権又は編曲権に抵触するものではないが、乙曲の場合、これを聴く者において、甲曲と同一の楽曲であると誤解するか、少なくとも、
甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することができるものである。
(2) 両曲の各フレーズの出だしと段落 甲曲の旋律は、「どこまでもゆこう/みちはきびしくとも/くちぶえをふきながら/はしってゆこう」の各歌詞部分に対応する4フレーズ(以下、順に「フレーズA」ないし「フレーズD」という。)から成るところ、起承転結の「起」に当たるフレーズAはドレミで始まりドで終結している。同様に、「承」に当たるフレーズBはドドファで始まりソで終結し、「転」に当たるフレーズCはソソラで始まりドで終結し、「結」に当たるフレーズDはドレミで始まりドで終結している。
他方、乙曲の旋律は、「こうていのすみに/みんなでうえたきねんじゅ/いつのひにかとおいところで/おもいだすだろう/それはたぶん/つらいときなきたいとき/みどりいろのはっぱかぜに/ゆれるきねんじゅ」の各歌詞部分に対応する8フレーズ(以下、順に「フレーズa」ないし「フレーズh」という。)から成るところ、フレーズa〜dと同一のフレーズe〜hをつないで一曲としているものであって、実質的にはフレーズa〜dの繰り返しである。
そこで、甲曲のフレーズAと乙曲のフレーズa、e(以下総称して「第1フレーズ」ということがある。)、甲曲のフレーズBと乙曲のフレーズb、f(同じく「第2フレーズ」ということがある。)、甲曲のフレーズCと乙曲のフレーズc、g(同じく「第3フレーズ」ということがある。)及び甲曲のフレーズDと乙曲のフレーズd、h(同じく「第4フレーズ」ということがある。)をそれぞれ対比すると、各フレーズの出だしと段落の音は同一である。すなわち、両曲において、各フレーズ間の音のつながりが同一であり、このため、聴いた者において両者は同一の楽曲であると誤解するほど類似する旋律となっている。
(3) 両曲の強拍音 強拍音は、音楽的に重要でその旋律を印象付けるものであって、各小節の第1音にあるところ、甲曲においては、第1小節(この項において、小節数は別紙3記載の対比譜面の乙曲の楽譜に付記された小節数で示す。)ではミ、第2小節ではド、第3小節ではファ、第4小節ではソ、第5小節ではラ、第6小節ではソ、第7小節ではミ、第8小節ではドがそれぞれ使われている。そして、乙曲でも、第8小節でレが使われているほか、甲曲と同一の強拍音が使われている。なお、第8小節の強拍音が異なるのは、乙曲がフレーズa〜dとフレーズe〜hという同じ旋律ラインを二つつないで一曲としているところから、第8小節目で曲を終了させないための手法にすぎない。このような強拍音の共通性は、各フレーズの出だしと段落が同一であることから受ける印象の類似性を更に強めるものとなっている。
(4) 両曲の旋律の相違部分 甲曲と乙曲の旋律の相違部分は、別紙3記載の対比譜面の緑色に着色した部分であり、それ以外の橙色に着色した部分では、一部について音符の数を変えているほか、旋律に違いはない。そして、その相違部分を見ると、@ 第1フレーズの後半部分で、甲曲の「ミドシドレド」が乙曲では「ミミレレドド」となっているが、これは、甲曲の導音であるシが避けられているだけで、抽象化すると「ミレド」の旋律として同じである。A 第2フレーズの後半部分では、甲曲の「ファファファソラソ」が乙曲で「ファララソ♯ファソ」となっているが、使われている音はすべて共通し、甲曲ではファから少しずつ音の高さを上げてソで終結させているのに対し、乙曲ではファから一気にラに上げて少しずつ下げてソで終結させて反行させているものであって、二重唱の旋律の差異にすぎない。なお、乙曲の「♯ファ」は、ソに自然につなげるために半音上げとしたものにすぎない。B 第3フレーズの後半部分では、甲曲の「ソミド」が乙曲で「ソソミレド」となっているが、これは、同一音ソの音符を増やし、ミ-ドの間にレを入れて「ミレド」と音をつないだにすぎず、甲曲の「ソミド」の旋律そのものである。C 第4フレーズの後半部分の両曲の相違は、乙曲が同一旋律を2回繰り返して1曲としているところから、フレーズdで曲を終了させないために必要な変更にとどまる。そして、甲曲のフレーズDの後半部分と乙曲のフレーズhの後半部分を比較すると、甲曲の「ドシドレド」が乙曲では「ドレドド」となっているが、ここでも導音であるシが避けられているほか、その他の音は共通し、導音を除けば「ドレド」の旋律である。
上記の程度の旋律の変更は甲曲の旋律に重要な変更を加えるものとはいえず、現に、控訴人A自身が甲曲の変奏曲として作曲したものと比較しても、原曲である甲曲に対する類似性は、むしろ乙曲に強く見られるほどである。
このように、両曲の旋律の相違部分は、甲曲の旋律にとって音楽的に重要性を欠く部分であり、量的にも少なく、かつ、同一和音内の他の音に置き換えているにすぎないものであるため、甲曲の旋律の特徴を打ち消すことができず、聴く者に甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得させるものといえる。乙曲の上記変更部分に創作性が認められるとしても、甲曲を原曲とする変奏曲としての創作性にとどまり、著作権法上の編曲に当たる。
(5) 旋律以外の要素について 和声については、甲曲が4種類の和声を持つのに対し、乙曲は18種類の和声を有しているものの、和声群の観点から比較すると、乙曲の第1〜第5小節、
第9〜第13小節、第15、第16小節はいずれも同一和声であり、第6、第14小節は同一和声と代理和声及び経過和声の混合である。第7、第8小節のみは別和声であるが、これは楽曲を繰り返して始めの主和音に連結するための和声進行にすぎないから、音楽的な創意があるものとはいえない。次に、リズムについては、甲曲が2分の2拍子、乙曲が4分の4拍子という違いがあるものの、両者は容易に置き換えの可能なものであり、軽音楽においては演奏形式の違いにすぎないというべきであるし、両曲を同一表記にした場合、リズムは約74%が同一となるから、リズム構造も酷似している。テンポの違いは演奏形態の問題にすぎず、本質的な要素ではない。また、形式について、乙曲は二部形式であるように見えるが、厳密には反復二部形式であり、甲曲の一部形式部分を反復するものにすぎないから、両者は同一形式というべきものである。なお、曲の全体的な雰囲気は、歌詞や編曲を変えることによって、これを変えることが可能である以上、本質的な要素ではなく、本件でその違いは問題とならない。
1-2 被控訴人の主張 (1) 楽曲は、ある時間経過の中で、旋律、和声、リズム、テンポ、形式等のかもし出す全体的な印象が聴き手の心に感情の流れを生じさせる点に著作物としての本質がある。すなわち、楽曲に係る音楽の著作物は、聴き手が鑑賞するために一定の時間の枠組みが必要であり、時間経過の中で楽曲の表現が変化していくものであるから、その表現上の本質的な特徴の同一性の判断に当たっても、原曲を直接聴取した結果感じる印象を、一定の時間経過ごとに区切って対比されるべきである。
ところが、控訴人らの上記主張は、音符と音符のつながりがかもし出す印象の比較を考慮せず、前後裁断された音符の量的比較に終始したものであって、上記のような楽曲に係る音楽の著作物の本質を見過ごしている。
(2) 旋律のフレーズごとの対比 ア 甲曲は前に進む「行為」を表現した曲であり、乙曲は記念樹が風に吹かれている「情景」ないし記念樹を見て心に浮かぶ「情景」を表現したものである。
この違いは、甲曲の冒頭「ドレミードシードレドー」の下線部に、主音ドを強く導く導音シが使われていることに起因する。この導音シは強拍部にあり、旋律全体を前に押し進める力を内包させており、わずか一つの音であっても極めて重要な意味を有する。
これに対し、乙曲の冒頭「ドレミーミレーレドドー」にはドレミの3音しか使われておらず、導音シは存在しない。この部分では、ドレミの3音をなだらかに連ねることによって、ソフトにたたずむような感じを生じさせており、動きを表現する甲曲とは旋律として全く別のものである。
イ 次に、展開部分である第2フレーズで、甲曲の「ドドファーファファファソラソー」の部分は、険しい山を息をつめながら登っていくような感じがするが、これは、ドからファへの4度の跳躍をした後にファを4回連ね、更にソ、ラと1音ずつ上げていることによって生ずるものである。これに対し、乙曲の「ドドファファファファララソ♯ファソー」の部分は、最初こそ4度の跳躍を使っているが、その後ラに上がり、細かく8分音符を連ねながら♯ファを使った繊細な下り方を見せ、♯ファから半音上げたソーで中間の締めとなっている。この繊細微妙な「ララソ♯ファソー」の部分でさわやかな風が吹いてきている感じがする。
この部分の旋律を比べると、一番高い頂のラの場所が違うことに加え、
乙曲では♯ファという微妙な音が使われているという決定的な違いがある。
ウ 続いて、解決部分である第3、第4フレーズで、甲曲の「ソソラーソファーソラソーミドー」「ドレミミードシードレドー」では、息をつめ登ってきた山の峠をやっと越え、山を下り、次の山を目指して更に進んでいく感じがする。ここは非常に男性的な印象で、直線的な旋律の上がり下がりが登山下山の様を表現している。これに対し、乙曲の「ソソラーラソファーソラソソミレドー」「ドレミードラーミーレー」という流れになっており、この4小節が連続した一つのまとまりになっている。8分音符を多用した細かな譜割りと、経過音レを入れたことによる柔らかな流れがここでの特徴で、なだらかな丸みをもった相似形の女性的な旋律の弧が4回繰り返され、聴き手は落ち着いた気分となる。
この部分は、男性的と女性的という性質が異なっている。
エ さらに、乙曲では、この後に後半部分が続き、もう一度「ドレミーーレードドーーー」の導音のない静かなフレーズで気持ちを一度ためた後、「ドドファファファファララソ♯ファソー」のクライマックスに向かう。この部分は第2フレーズのときと異なり、情景描写よりも心の内をはき出す感情流出を促す作用を有している。ここで高ぶった感情が吐き出され、続く「ソソラーラソファーソラソソミレドー」「ドレミードレードドーー」と柔らかな流れで収束していく。
この感情表出とカタルシスの後の心の静まりの旋律は甲曲には存在しない。
オ 以上のとおり、乙曲の旋律を全体として見ると、静かにたたずむ情景から始まり、風が吹きそよぐ情景へと展開し、追想へのいざないによって感情表出の準備をさせ、いま一度静かにたたずんだ後、感情を吐露させ、その吐露によって浄化された気持ちを静かに収めていくという流れになっており、旋律自体、甲曲とは全く異なるものである。
(3) 和声の本質的違い ア 音楽が聴き手の情緒に働きかける最も重要な要因は和声であり、同じ旋律であっても、和声の違いによって、受ける感情的印象は全く別のものとなる。被控訴人のようにオーケストラのスコアを書く作曲家は、和声と旋律を同時に作り出しているのであって、和声は主旋律に従属したものではなく、旋律と一体不離の楽曲の柱として旋律と同等以上の重要性を有する楽曲の要素である。楽曲の表現上の本質的な特徴を旋律だけで判断すべきことをいう控訴人らの主張は、およそ偏ったものといわざるを得ない。
イ 甲曲の和声は基本3和音(ハ長調でC、F、G)で成り立つ簡素なものであるのに対し、乙曲は繊細な感情を表現するため18種類の多彩な和音がきめ細かく付けられている。これを具体的に見ると、冒頭の「ドレミーミレーレドドー」の静かにたたずむ情景を表す旋律は、D→G/A→D→G/D→Dという浮動感のある和声で包んでいる。旋律の「ミーミ」「レーレ」「ドドー」のなだらかに下降する雰囲気をG/Aを使って表している。
続くフレーズbの「ドドファファファファララソ♯ファソー」の部分では、D→G→Dというごく普通の和声となっており、素朴で静かなまま和声はほとんど動かない。
フレーズc、dの「ソソラーラソファーソラソソミレドー」「ドレミードラーミーレー」の部分は、細かい譜割りと一体化したきめ細やかな和声付けになっており、第4小節のD→C/D→D7に始まり、G→A7→D→F♯+/A♯→Bm→Bm/A→G(Em)→G♯m7♭5→G/Aという複雑な和音が続いているが、ここでは、明るい中にもしんみりとした感傷的な思いが伝わってくる。それは、長調でありながら悲しみを表現するBm、G♯m7♭5などの和音が使われていることによるものである。また、旋律の流れを経過和音であるF♯+/A♯、Bm/A、G♯m7♭5を使うことによってスムーズにつないでおり、一つの音符もゆるがせにせず、感情的な色付けを与えようとしている。
フレーズeの「ドレミーーレードドーーー」の最後のドを3拍延ばす間に、和音はD→Dmaj7→D7と変化し、次にG/B→A7/G→F♯mの和声の中で「ドドファファファファララソ♯ファソー」と感情を吐露する。旋律の共通する第3フレーズではG→Dという簡素な和声が使われているが、ここで思いのたけを吐き出すためにはG→Dという動きのない和声ではもの足りず、存在感のあるコードを使って、ここがこの曲のポイントであるという主張をしているものであり、聴き手の感情が最も高まるクライマックスとなっていることが分かる。
フレーズg、hの「ソソラーラソファーソラソソミレドー」「ドレミードレードドーー」の部分は、旋律の共通するフレーズc、dと異なり、経過和音を使うことなく、D7→G→A7/G→F♯m→Bm→Gm/B♭→D/A→G/A→D→Gm6/D→Dとなっている。この終止に向かう流れの中では、きめ細かく経過和音を使って流れのよさを表すのではなく、高ぶった感情をオーソドックスな和音によって自然体で収めていく趣がある。また、Gm/B♭、Gm6/Dという泣いている感じを表現するコードが使われているが、よく使われるGmをそのままの形では使わずに分数コード等にしているところに工夫がある。
ウ 以上のように、乙曲の和声は、心に響く感情内容が甲曲とは全く異なり、甲曲が明るく前向きな印象を残すのに対し、感傷的でウェットな思いを生じさせるものである。
(4) その他の要素について ア リズムについて見るに、甲曲は2分の2拍子で、強拍部分が1拍ごとに出てくるリズムの刻みが前に進む感じを強く表現しており、シャッフルと呼ばれる軽く飛んだリズムである。これに対し、感傷的で懐古的な歌詞の乙曲にこのような前進的な印象は適合しないため、乙曲では、静かなバラードに適した4分の4拍子となっている。これも両曲の本質的な違いの一つである。
イ 次に、テンポは、前進的な曲想の甲曲は1分間に2分音符116回くらいの速さであるのに対し、情感の深まりを期する乙曲は1分間に4分音符98回くらいの速さであり、この点においても両曲は本質的に異なる。
ウ また、形式も、甲曲は一つだけのまとまりから成る一部形式の曲であるのに対し、乙曲は前半部分Aと後半部分A′の二つの部分から構成されており、しかも、後半部分が前半部分の単純な反復でないことは、和声に関して上述したとおりである。乙曲のクライマックスであるA′に相当する部分のない甲曲は、形式においても全く異なる楽曲である。
(5) 慣用的な音型について 甲曲の旋律は、依拠性に関して後述する(後記2-2(2))とおり、慣用句ないし先駆形を踏襲した音型の連続で成り立っており、そのような慣用的な音型に創作性は認められないというべきである。したがって、乙曲の旋律の一部が、甲曲のこのような慣用的な音型と類似しているとしても、表現上の本質的な特徴の同一性を基礎付けるものとはいえない。なお、アメリカの判例法においても、「trite(ありふれた、陳腐な)」な旋律が類似するにすぎないケースについては、著作権の侵害が否定されている。
2 争点2(依拠性)について 2-1 控訴人らの主張 (1) 甲曲は、昭和41年にブリヂストンのテレビコマーシャルにおいて発表され、ヒット曲として大きな人気を博したことから、その後も長くコマーシャルソングとして使用され、そのレコード、CD、出版物等が大量に販売された。また、昭和49年には中学校の教科書にも収録されたほか、大手教科書出版社の発行に係る小中学校の音楽教材にも長年にわたって掲載されている。これらの点から、甲曲は、国民的愛唱歌というべき楽曲であって、現代の日本人で甲曲を聴いたことがないという者はほとんどいない状況にある。
(2) 被控訴人は、昭和41年以前から我が国に居住し、音楽業界で音楽家としての仕事に携わってきた者である上、次の点からも、甲曲に接していたことがうかがわれる。すなわち、被控訴人は、昭和34年ころから現在まで、歌手Fと仕事上密接な関係があり、海外公演に同行したり、Fのために多数の作曲及び編曲をするなどしている。他方、Fは、長年甲曲を歌唱し、シングル版のレコードまで発売しているのであるから、被控訴人が甲曲を知らないはずはない。また、被控訴人は、
昭和59年ころ、ブリヂストンの社歌を作曲しているところ、社歌を作曲するには、依頼主である企業のイメージに大きな影響を与えているコマーシャルソングを考慮することは当然である。なお、甲曲は、ブリヂストンの社史にも掲載されているものである。
(3) また、被控訴人は、平成10年7月31日、日本テレビ「ルックルックこんにちは」で放送された自宅前での記者のインタビューに対し、「ああそうか、この曲ねって感じ」、「興味をもって知っているかということとは違うんじゃないですか」などと返答しており、また、同年8月12日、全日空ホテルでの記者会見で、甲曲のテープを聴いて「それでまず感じたことは、率直には『あ、これか』ということですね」と発言している。これらの発言は、甲曲を聴いたことがあったことを自認するものにほかならない。
(4) 被控訴人は、作曲家としてはヒット曲の実績はないが、編曲者としては評価されている者である。このような被控訴人の作曲傾向からすると、ヒットメロディーを作曲する必要に迫られた場合、既に国民に受け入れられているヒットメロディーを参考にしてこれに手を加えて作曲するということは容易に想像されるところである。現に、被控訴人は、平成12年にも、ヒット曲「夜空ノムコウ」に酷似した「宮崎市観光TV-CM曲」及び「波と光の向こうに」を自己の作品と称して公表している。
(5) 被控訴人は、乙曲が甲曲に依拠していないことの論拠の一つとして、乙曲がいわゆる詞先で作られた曲であることを主張する。しかし、乙曲の歌詞原稿(甲89の2)には、「使えず(に)」のように括弧でくくられた平仮名が存在するところ、これは、作詞者が旋律と歌詞の対応関係について確信を持っていなかったこと、すなわち、作詞者は先行して作曲された旋律に当てはめようと苦労しながら作詞したことを示すものであり、乙曲はいわゆる曲先の曲にほかならないから、被控訴人の上記主張は失当である。
(6) 作曲の多様性を考えた場合、乙曲は余りにも甲曲と類似しており、しかも、その類似性が1〜2小節程度のものではなく、楽曲全体が類似していることは前記のとおりである。2小節程度の旋律部分が慣用的な音型であるとしても、4フレーズから成る甲曲の全体と酷似する旋律が偶然できてしまうということは、確率論からしてもおよそ考えられないところであり、上記のような被控訴人の甲曲に対するアクセスの事実をも考慮すれば、依拠性が強く推認されるというべきである。
2-2 被控訴人の主張 (1) 乙曲が甲曲に依拠して作曲されたものでないことは、以下のような乙曲の作曲の経過から明らかである。
ア 乙曲は、歌詞が先に作られたいわゆる詞先の曲である。
すなわち、平成4年4〜5月にフジテレビの番組「あっぱれさんま大先生」に使用する8曲の歌詞がDによって作られ、その一つが乙曲の歌詞であった。
その作曲については、Dと被控訴人の双方に面識のあったGを通じて、同年5月末ころ、被控訴人に作曲依頼がされたものである。その際、Dと乙曲のレコード製作者(原盤制作者)であるポニーキャニオンのプロデューサーHは、被控訴人と直接会って、乙曲は上記番組の卒業式で歌うことが想定されており、「仰げば尊し」や「螢の光」に代わる心に残るバラード曲としてアルバムを締めくくる曲であるとの説明をした。これを受けて、被控訴人は、上記歌詞に2種類の曲を付け、そのうちの一つが採用されて乙曲とされた。なお、その過程では、Dの制作した歌詞の原型に字数を調整するなどの修正が加えられており、甲89の2の書込部分はそのような修正を示すものである。
また、乙曲の歌詞とイントネーションとメロディーの調和性、曲の展開の自然さ、息継ぎに無理なところが全くないことからしても、乙曲がいわゆる詞先の曲であることは明らかである。
イ そうすると、依拠性に関して重要なことは、乙曲の歌詞から甲曲が連想されるかどうかであるが、乙曲の歌詞が卒業式の別れの場面で歌うことを前提として作られており、前に向かって進んでいく明るい曲想の甲曲とは本質を異にし、乙曲の歌詞から甲曲が連想されないことは明白であるから、歌詞に即してメロディーが付けられた乙曲が、甲曲に依拠したものでないことは明らかである。
そもそも、被控訴人は、経験と実績を十分有する作曲家であって、乙曲のような簡素な16小節の楽曲を制作するのに造作はなく、曲想のかけ離れた甲曲をわざわざ参考にする必要性は全くない。
(2) また、甲曲は慣用句ないし先駆形を踏襲した音型の連続で成り立っており、甲曲によることなく、同様のモチーフを想起することは容易である。
すなわち、甲曲をモチーフごとに区分したとき、フレーズAの「ドレミードシードレドー」の部分は、甲曲以前に公表されていた「ケアレスラブ」や「涙くんさよなら」に、フレーズBの「ドドファーファファファソラソー」の部分は「モーツァルトの子守歌」に、それ以後の部分は「ステンカラージン」や「時計」等に、それぞれ共通した音型が現れている。さらには、甲曲の全フレーズがバッハのカンタータ147番「主よ、人の望みの喜びよ」の中の主旋律を伴う内声部分に使用されている。
控訴人らは、4フレーズ全体の旋律が偶然に類似することは確率論上考えられないと主張するが、一つの慣用句的音型を一定の曲調のものとして聴く者に心地よく聴かせるためには、それに続く音型もおのずと制限されるのであって、単純な確率論が妥当するものではない。
(3) 控訴人らは、現代の日本人で甲曲を聴いたことがないという者がほとんどいない状況にある旨主張するが、甲曲の作品届が提出されたのは昭和42年2月28日であり、乙曲が作曲されたのは平成4年5月末ないし6月初旬であって、この間、四半世紀の時が経過しているのに、甲曲が流布していたことを示す客観的な証拠は全く提出されていない。控訴人らの上記主張は、裏付けを欠くものというべきである。
(4) 控訴人らは、被控訴人の甲曲へのアクセスについて主張するが、ブリヂストンの社歌の作曲に際して、同社のコマーシャルソングを参照することは不要のことであり、その事実もない。また、Fとの共演に関しても、被控訴人が共演したコンサートのプログラムの演奏曲目に甲曲が記載されているものが提出されているわけではなく、被控訴人の甲曲へのアクセスを何ら基礎付けるものとはいえない。
3 争点3(控訴人らの損害)について 3-1 控訴人らの主張 (1) 控訴人金井音楽出版の損害 ア 乙曲の著作権者であるフジパシフィックは、協会に対し、信託に基づいてその著作権の管理を委ねているところ、協会の著作物使用料規程(以下「使用料規程」という。)及び著作物使用料分配規程(以下「分配規程」という。)上、曲別徴収の対象とされている録音、映画録音ビデオグラム録音及び出版に係る協会のフジパシフィックに対する分配額及び分配保留額は、その全額が著作権法114条2項に規定する通常受けるべき金銭の額に相当する額を構成する(下記(ア)〜(エ)。その金額は、調査嘱託に対する協会の回答に基づくものであり、内訳は別紙5、6記載のとおりである。)。他方、使用料規程及び分配規程又は協会の運用上、包括的使用許諾契約の存在を前提として、包括徴収の対象とされる放送及び放送録音に係る相当対価額は、包括的使用許諾契約を前提としない侵害事件においては、1曲1回当たりの使用料の積算によるのが相当である(下記(オ)、(カ))。そうすると、甲曲の編曲権侵害によって被った控訴人金井音楽出版の損害は、これら相当対価額に、弁護士費用(2割)を加えた合計814万1599円を下らないというべきである。なお、下記損害額は、全損害中、現時点において証明の可能な一部について請求するものである。
(ア) 録音 108万2500円 @ 分配額 85万0539円(平成5年3月〜平成11年3月各分配期分) A 分配保留額 23万1961円(平成10年12月〜平成12年12月各保留期分) (イ) 映画録音 240円 @ 分配額 0円 A 分配保留額 240円(平成12年9月保留期分。ただし、楽曲分のみ) (ウ) ビデオグラム録音 9800円 @ 分配額 5370円(平成8年9月、12月、平成9年9月、12月各分配期分) A 分配保留額 4430円(平成11年9月、平成12年6月、9月各保留期分) (エ) 出版 102万6686円 @ 分配額 58万7219円(平成6年9月〜平成7年9月、平成8年3月〜平成11年3月各分配期分) A 分配保留額 43万9467円(平成11年3月〜平成12年12月各保留期分) (オ) 放送 451万0400円 @ フジテレビ(平成5年1月17日〜平成13年11月25日)分 297万6000円 (使用料規程第2章第3節2(2)のテレビジョン放送所定の1曲1回当たりの著作物使用料の第1類最低金8000円のところ、上記期間内に372回放送) A 関西テレビ(平成5年1月23日〜平成13年10月21日)分 153万4400円 (上記所定の1曲1回当たりの著作物使用料の第2類最低金5600円のところ、上記期間内に274回放送) (カ) 放送録音 15万5040円 @ フジテレビ(平成5年1月17日〜平成13年11月25日)分 8万9280円 (使用料規程第2章第4節1(2)テレビジョン映画所定の1曲1回当たりの著作物使用料240円のところ、上記放送に関し372回録音) A 関西テレビ(平成5年1月23日〜平成13年10月21日)分 6万5760円 (同じく1曲1回当たりの著作物使用料240円のところ、上記放送に関し274回録音) (キ) 弁護士費用 135万6933円 (上記(ア)〜(カ)の小計678万4666円の2割) イ なお、被控訴人は、上記分配額及び分配保留額から、作詞者及び歌手に対する分配分、協会の管理手数料分を控除すべき旨主張するが、本件においては、
甲曲について編曲権を有する控訴人金井音楽出版が、著作権者として直接権利行使しているのであって、相当対価額の算定上、協会の使用料規程等を参考にしているにすぎない。したがって、同控訴人において、当該相当対価額の全額を請求し得ることは当然であり、被控訴人の上記主張は失当である。しかも、乙曲に歌詞の付された歌曲「記念樹」は、甲曲の編曲権及び著作者人格権を侵害している違法なものであるから、楽曲はもとより歌詞に関しても、著作物使用料の分配請求権はないというべきであり、したがって、被控訴人の主張する分配分は観念し得ない。
また、被控訴人は、放送及び放送録音に係る相当対価額を1曲1回当たりの使用料で算定することは不合理である旨主張するが、協会が包括使用料を定めている趣旨は、協会が著作物使用料を低コストで確実に徴収するために、曲別使用料よりも格段に低額の金額を定めているものであって、いわば包括的合意をした者に対する特典である。このような合意がない場合にまで当該特典を与えることが不合理であることは明らかである。
(2) 控訴人Aの損害 甲曲の著作者である控訴人Aは、甲曲について、同一性保持権及び氏名表示権を有するところ、被控訴人において、控訴人Aの意に反して甲曲に改変を加えて乙曲とすることにより同一性保持権を侵害するとともに、乙曲を甲曲の二次的著作物でない自らの創作に係る作品として公表することにより、同控訴人の実名を原著作物の著作者名として表示することなく、これを公衆に提供又は提示させたものであるから、氏名表示権を侵害している。
この侵害状態は、平成4年以降、さらには本訴提起後も継続しており、この間、乙曲は、毎週のテレビ放送、CDの発売、カラオケ歌唱等を通じて公衆に提供又は提示されており、その結果、乙曲を甲曲であると誤解する者まで現れるなど、甲曲の独自性が脅かされている状況にある。
甲曲のような国民的な大ヒット曲は、才能のある作曲家であっても容易に創作し得るものではなく、それだけに作曲家にとって、非常に大切なものと考えられており、リメイクの注文があっても気軽には応ずることはない。ところが、被控訴人は、このような控訴人Aの心情を逆なでするかのように甲曲を改変した乙曲の公衆への提供又は提示を続けさせており、同控訴人の受けた精神的苦痛を慰謝するためには1億円を要するというべきであるが、本訴(控訴審)においては、慰謝料900万円、弁護士費用100万円の限度で請求する。
3-2 被控訴人の主張 (1) 控訴人金井音楽出版の損害について ア 協会のフジパシフィックに対する乙曲の録音、映画録音ビデオグラム録音及び出版に係る分配額及び分配保留額が、控訴人ら主張のとおりであることは認める。
イ 協会のフジパシフィックに対する乙曲の放送に係る分配額は133万7892円、分配保留額は61万4319円であるところ、控訴人金井音楽出版は、
放送に係る相当対価額として、上記分配額及び分配保留額をはるかに超える損害を主張している。しかし、仮に、同じ放送を乙曲ではなく甲曲を用いて行ったとしても、甲曲の分配額として支給される金額は乙曲のそれと同じ包括使用料方式による使用料になるはずであるから、放送及び放送録音についてのみ、録音、映画録音ビデオグラム録音及び出版と異なる1曲1回当たりの使用料による損害算定方法が妥当する根拠はないというべきである。また、「あっぱれさんま大先生」及び「やっぱりさんま大先生」の番組の放送に伴って乙曲が放送されたかどうかは明らかでないから、放送及び放送録音に係る相当対価額に関する控訴人らの主張は失当である。
ウ また、控訴人らは、乙曲の分配額及び分配保留額の全額が損害であると主張するが、まず、分配保留額は、本件訴訟が確定した時点で正当な権利者に支払われるものであるから、控訴人金井音楽出版の損害を構成しないというべきであるし、分配額には作詞者や歌手に対する分配分も含まれているのであるから、この点を無視して、その全額が相当対価額であるとする上記主張は失当である。さらに、
仮に、乙曲ではなく甲曲が放送及び放送録音されたとしても、協会の管理手数料分である10%相当額については、当然発生するものであるから、「通常受けるべき」(著作権法114条2項)損害額を構成するものではなく、これを控除すべきである。
(2) 控訴人Aの損害について 控訴人Aの主張中、乙曲について控訴人Aの実名を原著作物の著作者名として表示することなく公衆への提供又は提示がされていることは認め、その余は争う。
当裁判所の判断
1 争点1(表現上の本質的な特徴の同一性)について 1-1 総論 (1) 「編曲」の意義 歌曲「どこまでも行こう」は、控訴人Aの作詞に係る歌詞と同人の作曲に係る楽曲(甲曲)との、いわゆる結合著作物と解されるところ、本件では、後者すなわち歌詞を除く楽曲としての音楽の著作物に係る著作権(編曲権)の侵害が問題となっている。著作権法は、楽曲の「編曲」(同法2条1項11号27条)について、特に定義を設けていないが(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約2条(3)、12条も同じ。)、同法上の位置付けを共通にする言語の著作物の「翻案」が、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう(最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁)のに準じて、「編曲」とは、既存の著作物である楽曲(以下「原曲」という。)に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が原曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物である楽曲を創作する行為をいうものと解するのが相当である。
なお、社団法人日本音楽著作権協会の編曲審査委員会の審査基準(甲72の2)は、音譜を単に数字や符号などに書き変えたもの、原曲の調を単に他の調に移調したもの等を編曲著作物として取り扱わないと定めているが、これは主として編曲に至らない程度の改変と編曲との区別に着目した基準と解されるものであって、原曲と、その改変の程度が大きくなり、別個独立の楽曲の創作としてもはや編曲とはいえなくなるようなものとの区別に関して参考にすることはできない。
ところで、一般用語ないし音楽用語としての「編曲」(アレンジメント)については、例えば、代表的な国語辞書では、「ある楽曲を他の楽器用に編みかえたり、他の演奏形式に適するように改編したりすること」(株式会社岩波書店発行の「広辞苑第5版」)、「ある楽曲をその曲本来の編成から他の演奏形態に適するように書き改めること」(株式会社三省堂発行の「大辞林」)などとされ、平成11年2月28日株式会社音楽之友社発行の「新訂 標準音楽辞典」においては、
「(1)楽曲の本来の形から、通常、原曲の実体の本質をできるだけそこねずに、他の演奏形態に適するように改編することをいう。・・・大規模な編成を小編成に改める場合・・・編曲者の創作の入る余地はない。また演奏上の目的で行われる改編もあり、その場合は、編曲者による創作的要素が加わることが多い。たとえば、旋律だけの原形に伴奏を付加したり、まったく異なった楽器編成に改めたり、小規模な編成の楽曲を大編成に書き改めたりする場合などが含まれる。異なった編成への編曲を〈トランスクリプション〉とよぶこともある。(2)ポピュラー音楽やジャズでは、旋律や和声の特定の解釈をいう。・・・普通このような場合では、作曲家の役割は旋律を指定し、簡単に伴奏の和声を示すことだった。そして編曲者に演奏形態やオーケストレーションに関して自由裁量を残し、リズムや和声の細目についてはまかせている」とされているが、上記(1)の例として挙げられている「大規模な編成を小編成に改める場合」などは、著作権法上はむしろ「複製」の範ちゅうと解されるものであり、結局、一般用語ないし音楽用語としての「編曲」が著作権法上の「編曲」と必ずしも一致するものとはいえない。また、当審証人I(以下「I証言」という。)によれば、音楽業界で一般に「編曲」という場合には、上記(2)の趣旨、すなわち、旋律と和声の構造の確定した楽曲について、その構造を変更することなく、バックのオーケストラのスコアを制作することを指すものと認められるが(Eの陳述書〔乙9〕によれば、同人による乙曲の「編曲」もこのような態様を指すものと解される。)、著作権法上の「編曲」がこのような態様のものに限定されるものでないことは当然である。
そこで、一般用語ないし音楽用語としての「編曲」と著作権法上の「編曲」とでは、概念が必ずしも一致しないことを前提に、以下では、上記に示した著作権法上の解釈に従って、まず、乙曲が甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているかどうかについて検討する。
(2) 楽曲の表現上の本質的な特徴の同一性の判断基準 音楽の著作物としての楽曲の表現上の本質的な特徴の同一性の判断に当たって、控訴人らは、専ら旋律に着目すべきことを主張するのに対し、被控訴人は、
旋律と和声は一体不離の関係にあると主張するとともに、旋律、和声、リズム、テンポ、形式等は音楽の著作物の本質的な特徴であるからその総合的な判断が行われるべきであると主張する。
この点に関して、Jの意見書(乙24、以下「J意見書」といい、他の意見書についても、初出のもの以外はこれに準じて表記する。)は、単旋律だけで表現される楽曲や打楽器のリズムだけで表現される曲もあるとの留保付きながら、大多数の曲は「旋律・和声・リズム・テンポ・形式が一体となって表現されたもの」であるとし、Kの意見書(乙25)は、上記同様の留保付きながら、ほとんどの音楽は「リズム、メロディー、ハーモニー、形式等の一体化したもの」であるとし、
いずれの意見書においても、楽曲の比較の上では、これらの諸要素が聴く者の情緒に一体的に作用することを踏まえて全体的に判断されるべき旨が述べられている。
確かに、一般に、楽曲の要素として、旋律(メロディー)、リズム及び和声(ハーモニー)をもって3要素といわれることがあり、また、場合によってはこれに形式等の要素を付け加えて、これら全体が楽曲に欠くことのできない重要な要素とされていることは、当審証人Lや控訴人A自身の著書(昭和56年7月10日成美堂出版発行の「やさしい作曲のしかた/初心者のために」〔甲56〕36頁)によっても認められるところである(当審証人Lは、東京音楽大学・同大学院作曲専攻主任教授としては、Mの通用名によっており〔甲73〕、意見書等〔甲30、68、72の1、甲88、102〕でもその通用名が用いられているので、以下ではその証言を「M証言」、その意見書等を「M意見書」と表記する。)。
そして、一般に、楽曲の本質的な要素が上記のような多様なものを含み、
また、それら諸要素が聴く者の情緒に一体的に作用するのであるから、それぞれの楽曲ごとに表現上の本質的な特徴を基礎付ける要素は当然異なるはずである。そうすると、具体的な事案を離れて「表現上の本質的な特徴の同一性」を論ずることは相当でないというべきであり、原曲とされる楽曲において表現上の本質的な特徴がいかなる側面に見いだし得るかをまず検討した上、その表現上の本質的な特徴を基礎付ける主要な要素に重点を置きつつ、双方当事者の主張する要素に着目して判断するほかはない。
もっとも、単旋律だけで表現される楽曲もあることは、上記J意見書及びK意見書の指摘するところであって、旋律は、例えば浪曲のように単独でも音楽の著作物(楽曲)として成立し得るものである上、旋律自体を改変することなく、これに単に和声を付するだけで、旋律のみから成る原著作物の表現上の本質的な特徴の同一性が失われることは通常考え難いところである。これに対し、和声は、旋律を離れて、それ単独で「楽曲」として一般に認識されているとは解されず、旋律と比較して、著作物性を基礎付ける要素としての独自性が相対的に乏しいことは否定することができない。そして、このことは、打楽器のみによる音楽のような特殊な例を除いて、リズムや形式についても妥当するものと解される。そうすると、楽曲の本質的な特徴を基礎付ける要素は多様なものであって、その同一性の判断手法を一律に論ずることができないことは前示のとおりであるにせよ、少なくとも旋律を有する通常の楽曲に関する限り、著作権法上の「編曲」の成否の判断において、相対的に重視されるべき要素として主要な地位を占めるのは、旋律であると解するのが相当である。ちなみに、ドイツ著作権法(1965年)は、第1章「著作権」第4節「著作権の内容」第3款「使用権」中の23条翻案物及び変形物」において、「著作物の翻案物その他変形物は、翻案又は変形された著作物の著作者の同意を得た場合に限り、公表し、又は使用することができる」と規定した上、24条「自由利用」において、「独立の著作物で、他人の著作物の自由利用によって作成されたものは、利用された著作物の著作者の同意を得ることなく、公表し、使用することができる」(1項)、「第1項は、音楽の著作物の利用で、ある旋律が明らかにその著作物から借用され、それが新たな著作物の基礎となっているときは、適用しない」(2項)と規定している(社団法人著作権情報センター発行「外国著作権法令集(16)-ドイツ編-」の訳による。)。このように、ドイツ著作権法24条2項が、旧ドイツ文学音楽著作権法(1901年)13条2項の規定を踏襲して、
旋律が原著作物に依拠してこれを感得させることができる新たな音楽の著作物の利用については原著作物の著作者の同意を得ることを要する旨特に規定し、旋律を厳格に保護する法理を明文で定めていることは(フロム=ノーデマン「著作権法コンメンタール」〔第9版〕(1998)24条の注釈12〜15参照)、立法例の相違を超えて顧慮すべきものを含む。
被控訴人において、旋律と和声は一体不離であると主張する趣旨が、およそ判断の一過程であっても、旋律だけを取り上げて検討すること自体の不当性をいうものであるとすれば、上記のような旋律の独自性を否定するに帰する議論であって、これを採用することはできない。
1-2 本件における考慮要素 (1) 甲曲の表現上の本質的な特徴について ア 本件において、甲曲と乙曲の表現上の本質的な特徴の同一性を判断する前提としてまず検討されるべきは、甲曲の表現上の本質的な特徴がいかなる側面に見いだされるかである。すなわち、甲曲が備える表現形式であっても、表現上の創作性がない部分において乙曲と同一性を有するとしても、そのことから表現上の本質的な特徴の同一性を基礎付けることはできないからである(前掲最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決参照)。
イ このような観点から甲曲を見るに、甲曲は、控訴人A自身の作詞による歌詞を付され、Cの歌唱に係るテレビコマーシャルソングとして公表された楽曲であることからも明らかなように、旋律に沿って歌唱されることを想定した歌曲を構成する楽曲であり、そのような性格上、おのずと旋律に着目されやすいものということができる。しかも、甲曲は、歌曲の中でも、オペラ等のように大規模な楽器編成を想定するものではなく、基本的には、簡素で親しみやすい旋律中心のサウンドを想定した楽曲であると考えられるものである。すなわち、甲曲は、2分の2拍子で全16小節を1コーラスとする、軽音楽の中でも比較的短い楽曲であり、その構成も、フレーズA〜Dの全4フレーズ中、フレーズAとフレーズDはほぼ同一の旋律の繰り返しであるから、A-B-C-Aと定式化することができる簡素な形式が採用されているものであるし、和声も、基本3和音によるいわゆる3コードで進行する常とう的といってよい和声が付けられているにとどまるものである。そうすると、甲曲の楽曲としての表現上の本質的な特徴は、和声や形式といった要素よりは、主として、その簡素で親しみやすい旋律にあると解するのが相当であり、このことは、Iの意見書(乙5、17)において、控訴人Aの作風として指摘されているところにも沿うものである。
ウ この点に関して、被控訴人は、アメリカの判例法にいう「trite(ありふれた、陳腐な)」の概念を引用した上、甲曲の旋律は慣用的な音型の連続であって、そのような慣用的な音型に創作性は認められない旨主張する。
確かに、I意見書(乙5、17)、Nの意見書(乙16)等にも指摘されているとおり、甲曲の旋律を部分的、断片的に取り上げる限り、@フレーズA、
Dの「ドレミーードシードレドーーーーー」は、「ミルク色だよ」(中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ歌唱)とその原曲とされる「ケアレスラブ」(米スタンダード曲)の「ドレミーードシーレードーーーーー」や、「涙くんさよなら」(浜口庫之助作曲)の「ドレミーードシーレードーーーーー」と類似するほか、冒頭が「ドレミ」で始まる曲は、「テネシー・ワルツ」(P・E・キング作曲)、
「ドレミの唄」(R・ロジャース作曲)、「カントリー・ロード」(B・タンホフ外作曲)等に、続く「ドシードレド」の部分も、「時計」(R・キャントラル作曲)等にも見られること、AフレーズBの「ドドファーーファファファソラソーーーーー」は、「モーツァルトの子守歌」の「ドファファファソラソーーー」と類似すること、BフレーズCの「ソソラーーソファーソラソーーミドー」の前半部分は、「ステンカラージン」(ロシア民謡)の「ラーーソファラソー」、「アンジェリータ」(マルセロ・ミネロビ作曲)の「ラーラソファーソラ」等に類似するほか、後半部分に類似する「ソーミレドー」の旋律が、「風に吹かれて」(ボブ・ディラン作曲)、「明日に架ける橋」(P・サイモン作曲)等に見られることが認められ(以上、検乙1、2、5、11等参照)、このような部分的、断片的な旋律として見る限り、甲曲は慣用的な音型で成り立っているということもできないではない。
しかし、上記のような同一ないし類似する旋律のまとまりとして挙げられるのは、せいぜい1フレーズ(2分の2拍子で4小節、4分の4拍子で2小節)までの長さのものであって、4フレーズを1コーラスとする甲曲を全体として見た場合に、その全体の旋律が慣用的に用いられていたことを示すものとはいえない。
仮に、本件において、乙曲の旋律との同一性ないし類似性が問題とされているのが、このような1フレーズ程度の旋律部分に係るものであるとすれば、創作的な表現とはいえない慣用的な音型の一致又は類似にすぎず、表現上の本質的な特徴の同一性を基礎付けないということもあり得ようが、本件で控訴人らが問題としているのは、甲曲の旋律全体と乙曲の旋律全体の類似性にあるのであり、このような4フレーズの旋律全体の構成として考えた場合、甲曲特有の創作的な表現が含まれていることは明らかというべきである。
なお、K意見書(乙25)は、甲曲の全フレーズの旋律がバッハのカンタータ147番「主よ、人の望みの喜びよ」に現れている旨指摘しているが、同曲に現れているという旋律は、各パートの音を、断続的に、いわば継ぎはぎの形で組み合わせたものであって、検乙17、18によっても、同曲から甲曲のすべての旋律を直接感得することは困難であるといわざるを得ない(M意見書〔甲120〕も同趣旨)。そうすると、上記の各楽曲を含め、甲曲のすべての旋律が現れている楽曲の例は、本件全証拠を総合しても見当たらず、甲曲の旋律が慣用的な音型の連続として表現上の創作性を欠くということはできない。
また、被控訴人は、一つの慣用句的音型を一定の曲調のものとして聴く者に心地よく聴かせるためには、それに続く音型もおのずと制限される旨主張するが、上述のように、被控訴人側の調査にもかかわらず、甲曲の旋律と類似する楽曲の例として、せいぜい1フレーズ程度までのものしか発見されていないということは、甲曲程度の比較的短い楽曲で、かつ、部分的断片的には慣用的な音型と一致又は類似するものであっても、その旋律の組立てにはそれ相応の多様性が残されていることを示すものと解するのが相当であり、被控訴人の上記主張は採用することができない。
エ 以上の趣旨は、M証言及びM意見書(甲30、68)にも示されているとおりである。すなわち、M証言及び上記M意見書は、甲曲のフレーズA〜Dが、
順に起承転結を構成するとした上、乙曲との対比においては、2小節程度の旋律の類似性という部分的な問題ではなく、このような旋律全体の起承転結の組立ての同一性こそが最も重要な問題であると的確に指摘している。
したがって、甲曲と乙曲の表現上の本質的な特徴の同一性を検討する上で、まず考慮されるべき甲曲の楽曲としての表現上の本質的な特徴は、主として、
その簡素で親しみやすい旋律にあるというべきであり、しかも、旋律を検討するに際しても、1フレーズ程度の音型を部分的、断片的に取り上げるのではなく、フレーズA〜Dから成る起承転結の組立てというその全体的な構成にこそ主眼が置かれるべきである。
(2) 本件における旋律以外の要素の位置付け 一般に、旋律を有する通常の楽曲において、編曲の成否の判断要素の主要な地位を占めるのは旋律であると解されること、これを甲曲の楽曲としての本質的な特徴という観点から具体的に見ても、その表現上の本質的な特徴が、主として旋律の全体的な構成にあることは上記のとおりであるが、甲曲は和声等を含む総合的な要素から成り立つ楽曲であるから、最終的には、これらの要素を含めた総合的な判断が必要となるというべきである。
本件においては、控訴人らにおいて、甲曲と乙曲の表現上の本質的な特徴の同一性を基礎付ける具体的な事実として、旋律に着目した主張立証をし、被控訴人において、その同一性を否定すべき事情として、旋律自体に着目した同一性を争うととともに、和声、リズム、テンポ、形式等の要素に係る主張立証をしているので、以下、1-3で控訴人らの主張に係る旋律の要素を独立してまず取り上げて検討した上、被控訴人の主張する和声等の要素は、下記1-4、5でその減殺事由として考慮することとする。
1-3 旋律の対比 (1) 両曲の旋律の対応関係 甲曲の旋律がフレーズA〜Dから成る起承転結の構成を有することは前示のとおりであるところ、控訴人らは、乙曲がフレーズa〜dの前半部とフレーズe〜hの後半部の繰り返しから成ることを前提に、第1フレーズとして甲曲のフレーズAと乙曲のフレーズa、eを、第2フレーズとして甲曲のフレーズBと乙曲のフレーズb、fを、第3フレーズとして甲曲のフレーズCと乙曲のフレーズc、gを、第4フレーズとして甲曲のフレーズDと乙曲のフレーズd、hを、それぞれ対比検討すべき旨主張し、前掲各意見書等もこのような対応関係を前提に検討を行っているものと解される。
そして、上記のような対応関係を前提として検討する便宜上、別紙3では、両曲をともにハ長調に移調して、2分の2拍子である甲曲の2小節と4分の4拍子である乙曲の1小節が対応するように、両曲の楽譜を並べて対比譜面とした(I意見書〔乙5〕11頁から抜粋したものであるが、前記フレーズ名を付記するとともに、音の高さの一致する部分を橙色に、異なる部分を緑色に着色した。)。
また、別紙4(「旋律の対比」)は、上記の対応する各フレーズごとに、両曲の旋律を階名で表記したものである(なお、以下、「フレーズAの7音目」、「ドレミーーの5音」などと表記する場合の音数は、対応関係を理解し易くする便宜上、別紙4に記載の数字に示すとおり、音符の数ではなく、拍数に従って数える。したがって、4分の4拍子に換算した場合の1小節が「8音」ということになる。)。
(2) 数量的分析 まず、ごく形式的、機械的な対比手法として、別紙4に基づいて、甲曲と乙曲の対応する音の高さの一致する程度を数量的に見ると、第1フレーズでは16音中11音が、第2フレーズでは16音中12音が、第3フレーズでは16音中14音が、第4フレーズでは、フレーズdで16音中6音が、フレーズhで16音中12音が、それぞれ音の高さで一致する。そうすると、乙曲の全128音中92音(約72%)は、これに対応する甲曲の旋律と同じ高さの音が使われていることが理解される。
なお、被控訴人の陳述書(乙6)中には、旋律が同じであるか、又は酷似していながら、テンポ等が違うために異なる印象を与える曲として、「クマーナ」(アレックス・ロドリゲス作曲)と「いいじゃないの幸せならば」(いずみたく作曲)、「上を向いて歩こう」(中村八大作曲)と「皇帝」(ベートーベン作曲)、
「夏の思い出」(中田喜直作曲)と「歓喜の歌」(ベートーベン作曲)等を挙げているが、Oの意見書(甲9、19の1)、Pの意見書(甲122)及び検甲30によれば、被控訴人の指摘に係る上記各曲の旋律を対比しても、甲曲と乙曲との旋律の音の高さの一致の度合いとは比較にならないほど低い数字(甲曲と乙曲の一致率約72%に対して、最も一致率の高い「クマーナ」と「いいじゃないの幸せならば」で約40%)にしかならないこと、他方、「ケアレスラブ」(米スタンダード曲)とその編曲に係るものとして公表されている前記「ミルク色だよ」との一致率は、甲曲と乙曲における数字と同じ約72%となることが認められる。
もとより、楽曲の表現上の本質的な特徴の同一性が、このような抽象化された数値のみによって計り得るものではないことはいうまでもないが、上記のような形式的、機械的な対比手法によって得られた数字が示す甲曲と乙曲との旋律の音の高さの一致の程度は、旋律の類似例として本件の主張立証中に数多く現れている他のいかなるものと比較しても、格段に高く、むしろ、原曲とその編曲に係るものとして公表されている楽曲と同程度であるということは、看過することのできない一つの事情と解される。
(3) 起承転結の構成の類似性 次に、甲曲の表現上の本質的な特徴を基礎付ける主要な要素と解される起承転結の構成に係る甲曲と乙曲との類似性について検討する。
ア M証言は、甲曲と乙曲の旋律の類似性について、「『ドドファーファファーソラソー』(注、フレーズB)というのが『ドドファファファファララソファソー』(注、フレーズb)になっているのはそこまではまあ許せるとしまして、その次なぜ『ソソラーソファーソラソーミド』(注、フレーズC)というのが『ソソラーラソファーソラソソミレドー』(注、フレーズc)とそう行かなければならないか、そのフレーズの持っていき方が大変連結、メロディの連結の類似点がちょうどそのつなぎ目のところでものすごく強調されているという、はっきりと顕著に現れているというところで私はびっくりしたんです。・・・非常にこれは部分的にどこが違うというよりも、その持っていき方、連結の仕方、起承転結の仕方が一番問題だと思ってます。」、「2小節くらいの類似点というのは幾らでも楽曲においてはあり得ることですから、それらは認められますが、その次(注、フレーズaに続いて)何も『ドドファ』(注、フレーズb冒頭)と行かなくても、『ミファソ』とか他に『ファソラ』、何でもいいんですが、自由に動けるはずなのになぜ『ドドファ』と行かなければならなかったか」(同速記録4〜5頁)と述べ、両曲の旋律が、起承転結の構成において同一であり、そのことが、各フレーズの連結の仕方に顕著に現れている旨を指摘する。
イ 以上の趣旨を、M意見書(甲30、68、72の1、甲88、102)も踏まえつつ、更に詳細に検討する。
まず、乙曲は、全体としては、フレーズa〜dから成る前半部分とフレーズe〜hから成る後半部分とをつないだ反復二部形式となっており、前半部分と後半部分の旋律は、フレーズdとhの後半部分が異なるほか、ほぼ同一の旋律が繰り返されていることが明らかである。そして、フレーズaとフレーズdの前半部分及びフレーズhの全体にわたって、ほぼ同一の旋律が使用されているから、結局、
乙曲の構成を定式化すると、おおむね[a-b-c-a′]-[a-b-c-a]という反復二部形式となっているものと認められる(上記M意見書及びO意見書〔甲9〕等)。
そして、その前半部分と後半部分をそれぞれ甲曲の旋律の組立てと対比すると、別紙3、4からも一見して明らかなとおり、甲曲と乙曲は、各フレーズの最初の3音以上(譜割りを別として音の高さのみに着目すれば5音以上)と最後の音が、後述する唯一の例外を除く全フレーズにおいて、すべて一致していることが顕著な特徴として指摘されなければならない。しかも、両曲は、ともにアウフタクト(弱拍)で始まる楽曲であり、各フレーズの3音目と11音目に共通する強拍部(各小節の最初の音)が位置することとなるところ、その強拍部の音は、フレーズdの11音目を唯一の例外として、甲曲と乙曲とですべて一致する。なお、甲曲は2分の2拍子の曲であるから、本来、このほかに、7音目と15音目にも強拍部が存在するはずであるが、2分の2拍子か4分の4拍子かという違いは、演奏上のバリエーションの範囲内といえる程度の差異でしかないと解されるものであり(O意見書〔甲9〕、M意見書〔甲11〕、Qの意見書〔甲12〕、Rの意見書〔乙4〕)、現に甲曲を4分の4拍子の曲として掲載している教科書もある(甲22の1、2)ことから考えても、強拍部として重視されるべきは、両曲に共通の強拍部である各フレーズの3音目と11音目と解するのが相当である。
そして、各フレーズの出だしと終わりの音が一致すること及び両曲に共通する強拍部の音が一致することについては、「唯一の例外」があることは上記のとおりであるところ、その例外とは、ともに甲曲のフレーズDの末尾である11音目以下の音(ド)と乙曲のフレーズdの末尾である11音目以下の音(レ)の違いである。そこで、この相違部分について検討するに、乙曲の全体の構成が、おおむね[a-b-c-a′]-[a-b-c-a]として定式化できる反復二部形式であることは前示のとおりであり、フレーズd(上記「a′」の部分)の末尾は、この前半部分を後半部分へとつなぐ役割を果たしている部分であることが明らかである。このような乙曲の構成中におけるフレーズdの位置付けを考えると、フレーズdの後半部分の旋律がフレーズhの対応部分から変更されているのは、乙曲の反復二部形式という構成のため、前半部分の末尾で完全な終止形をとることはできず、
後半部分につなげる必要があることに由来するものであると解するのが相当であり、このことは、前掲M意見書のほか、O意見書(甲9)、P意見書(甲10)等にも述べられているところである。そして、一部形式の原曲を2回繰り返したものを1コーラスの反復二部形式として、その限度で必要な変更を加えること自体は、
編曲又は複製の範囲内にとどまる常とう的な改変にすぎないというべきであるから、上記の唯一の例外であるフレーズDとフレーズdの各末尾の音の違いは、両曲の本質的な特徴の同一性を否定する要因としてさほど評価することはできない。
ウ 上記のように各フレーズの最初の3音以上と末尾の音が全く同一であるということは、単に断片的な一部の音型が一致することを意味するにとどまらず、
あるフレーズから次のフレーズに移る楽曲としての組立て自体の看過し得ない類似性を基礎付けるものといわなければならない。すなわち、甲曲と乙曲の旋律は、数量的に見て約72%が音の高さで一致しているにとどまらず、楽曲の旋律全体としての組立ての上で重要な役割を担っている起承転結の連結部及び強拍部が、全フレーズにわたって、基本的に一致しており、その結果、乙曲の[a-b-c-a′]-[a-b-c-a]の構成は、甲曲のフレーズA〜Dから成るA-B-C-Aという起承転結の構成を2回繰り返し、反復二部形式に変更したにとどまるといっても過言ではないほど、両者の構成は酷似しているといわざるを得ない。そして、以上の諸要素が相まって、両曲の楽曲としての表現上の本質的な特徴の同一性が強く基礎付けられるというべきである。
この点に関して、J意見書(乙24)中には、乙曲のクライマックスはフレーズfにあり、前半部分と後半部分の単純な繰り返しではないとの趣旨の記載もあるが、その内容が和声の重要性という文脈で説明されていることから明らかなように、主として和声に着目したものであると理解されるものであるから、旋律に関する上記判断を左右するものではない。
(4) 両曲の旋律の相違部分について 次に、両曲の旋律の相違部分について検討する。
ア 第1フレーズにおいて、甲曲のフレーズAの「ミーードシードレド」に対応する乙曲の旋律部分は、フレーズaが「ミーーミレーレドド」、フレーズeが「ミーーーレーードド」となっており、その下線部に相違がある。なお、この点は、フレーズAとほぼ同一の旋律であるフレーズDと、フレーズa、eとほぼ同一の旋律であるフレーズhとの関係についても、同様のことがいえる。
この相違部分について、I証言及びI意見書(乙5)は、フレーズAの7音目のシは「導音」、すなわち、主音(根音、基音ともいう。)の半音下にあって次に主音を導く音であるところ、導音を旋律に用いると、安定的な感じがする反面、余韻や自由さに欠ける面があること等から、導音を用いるか否かは楽曲の表現上極めて重要であること、他方、乙曲は導音を使用していないことを指摘する。そして、これと同趣旨の指摘は、J意見書(乙24)、K意見書(乙25)、N意見書(乙27)等においても一致して述べられており、例えば、N意見書では、甲曲の導音シの存在は、次のドと強く結びつき、旋律の中に前進的な力を生み出すものであって、回想的な乙曲とは全く相容れないものであるとの趣旨を述べ、J意見書では、導音を使うと、旋律の展開が聴き手に強く予測されてしまうので、次の展開をやわらかで自由なものにするため導音を排除するということは、作曲技法上、非常に重要なポイントであるとしている。なお、上記のシが導音であること自体は控訴人らも肯定している。
確かに、両曲を聴き比べた場合の印象としても、上記各意見書に述べられているとおり、甲曲のフレーズAが、安定感のあるなじみやすい旋律で、力強い前進的な印象を与えるのに対し、乙曲のフレーズaは、「ふんわりとした浮遊感」(前掲I意見書)、「ふんわりと着地している感じ」(前掲J意見書)を印象付けるものということができ、このような印象の違いを生ずる最大の理由は、旋律線を主音へと導く導音の有無という作曲技法にあるものと認められ、この部分は、両曲の旋律の対比上、最も重要な違いを含むものと解される。
この点について、M証言及びM意見書(甲68)は、上記相違部分中、
甲曲のドと乙曲のミの違いは、ドミソという同一和音内の1音であり、次の甲曲の「シドレ」と乙曲の「レレド」は、ともにシレという音を含む和音内の装飾的変化であって、同一和音又はそれに準ずる和音内の音であるから、両者は同類であるとする。そして、甲曲と乙曲を歌唱したものを重ね合わせて聴いた場合に、両者の旋律は和音内のハーモニーとして聴くことが可能であり(例えば、検甲18、19。
ただし、本来の和声を使用した場合に異なる結果となることは後述する。)、その意味で、M証言及びM意見書のいうところにも正当性があるというべきであるが、
現実に上記旋律部分を聴いたときの印象の相違を否定する理由となるものではない。
そうすると、乙曲は、導音を排することによって、甲曲の有しない創作的な表現を備えたものということができるが、他方、例えば、甲124、125の各2によれば、明らかに甲曲の編曲の範囲内と解される曲の中には、導音シが用いられていないものもあることが認められ、このことは、導音シの存在が、甲曲の表現上の本質的な特徴を維持する上で不可欠の要素とはいえないことを示すものと解される。したがって、導音シの有無は、両曲の旋律上の重要な相違点ではあるが、
そのこと自体から直ちに表現上の本質的な特徴の同一性が否定されるものではなく、結局、導音を排した旋律という新たな創作的な表現が加わったことにより、上記のような旋律の類似部分にもかかわらず、両曲の表現上の本質的な特徴の同一性を損なうこととなるかどうかは、全体的な検討の中に位置付けて、更に検討すべき事項であり、この観点からの検討は後述することとする。
イ 第2フレーズにおいて、甲曲のフレーズBが「ドドファーー ファファファソラ ソ」(みちはーーきびしくとも)となっているのに対し、乙曲のフレーズb、fは「ドドファファファファララソ♯ファ ソ」(みんなでうえたきねんじゅ/つらいときなきたいとき)となっており、@ 3〜5音目の譜割りと、A 7〜10音目の音の高さにおいて相違する(下線部参照)。
この相違部分中、まず、@の3〜5音目の譜割りの相違に関しては、原曲の旋律と同じ高さの音を用いて譜割りのみを変更することは、編曲の範囲内にとどまる常とう的な手法にすぎないと解されるものであって(甲68のM意見書)、
原曲の表現上の本質的な特徴の同一性を損なうような改変と見ることはできない。
なお、フランスの旧文学的美術的所有権法(1957年)4条及びこれを踏襲した知的所有権法(1992年)112の3条は、「精神の著作物の翻訳、翻案、変形又は編曲の著作者は、原著作物の著作者の権利を害することなく、この法典に定める保護を享有する」と規定しているが(社団法人著作権情報センター発行「外国著作権法令集(18)-フランス編-」の訳による。)、楽曲「ラ・マリッツァ」がジョセフ・コスマ作曲の原曲「枯葉」の著作権(編曲権)を侵害(偽造)するか否かが争われた裁判において、パリ大審裁判所1971年2月10日判決(甲69の1、
2)は、両曲は四つの連続するフレーズによって構成され、各フレーズの最初の四つの音符は全く同一であり、唯一相違しているのは、音符のグループが順次分断されているか直接連結しているかという点だけであって、基礎旋律に類似性があり、
通常の機能を有する聴覚によって認識可能な類似点があるとする鑑定結果を採用して、侵害(偽造)を肯定した。検甲23によって両曲を聴き比べ、その譜面(甲70)を比較対照するとともに、M証言及びM意見書(甲68)を併せ考えると、
「ラ・マリッツァ」の旋律は、「枯葉」の旋律の重要な音を同じくしつつ、その譜割りを細かく分割して音階的につないだものということができるが、このようなものと比較しても、本件における上記の程度の譜割りの変更は、微々たる違いにすぎないものと解される。
次に、上記Aの音の高さの相違に関して、I証言及びI意見書(乙5)は、甲曲の上記旋律部分は最初のドから数えて6度の高さを8音かけて上っていったもので「上ること」が強調されているのに対し、乙曲の上記旋律部分は、ドからファ、ラに上がった後に5音かけて下がる流れを形作ることによって「ゆるやかに下降してゆらぐ」ことを印象付ける旨が述べられている(J意見書〔乙24〕等もおおむね同旨)。他方、M証言及びM意見書(甲68)では、上記各旋律部分は、
ファラドという和音内の装飾的変化であって、同一和声上に乗せることができる旋律なので、上行形か下行形かの違いだけで本質的な違いはない旨が述べられている。そして、両曲の旋律を聴き比べた場合、確かに、上記旋律部分の上行形(甲曲)か下行形(乙曲)かの違いに基づいて、I証言及びI意見書の指摘するような印象の相違が生じていること自体は否定し得ないが、導音の有無に係る上記アにおけるほどの異なった格別の印象を生ずるとは認められない。
ウ 第3フレーズにおいて、甲曲のフレーズCの9音目以降が「ソラソーーミドー」(ふきなーーがらー)となっているのに対し、乙曲のフレーズcの対応する部分が「ソラソソミレドー」(とおいところでー)、同gの対応する部分が「ソラソーミレドー」(はっぱかぜにー)となっており、各下線部の音の高さにおいて相違するほか、5音目及び12音目(フレーズcのみ)の譜割りが異なっている。
そして、上記の相違部分に関して、I証言及びI意見書(乙5)は、乙曲の上記旋律部分は、フレーズcからdにかけて、なだらかな丘が4回続いて下がるメロディー(@「ソソラーラソファー」、A「ソラソソミレドー」、B「ドレミードラー」、C「ミーレー」)の一つとして位置付け、聴き手を追想にいざなうものであるとし、J意見書(乙24)は、乙曲の上記旋律部分及びその前後の旋律では、譜割りを細かくし、経過音レを入れたことによる柔らかな流れが懐かしい感じを演出していることを指摘するのに対し、M意見書(甲68)は、上記旋律部分に関してはほとんど何の違いも見当たらず、リズムが細かく刻まれているのが2か所、非和声音レが入っているのが1か所だけで、音の本質に全く違いはないとしている。
上記旋律部分の相違は、上記各意見書が指摘するように、乙曲の旋律は、ソ-ミ-ドという下降形中のミとドの間に経過音レを入れるとともに、一部で譜割りを細分化したものと理解することができるが、それ以外の点では、フレーズ全体を通して全く同一である上、その前後のフレーズとの連結という観点から考えても、前のフレーズの最後の音(ソーーーーー)と後のフレーズの最初の3音(ドレミ)まで一致している。そして、譜割りを細分化して経過音でつなぐという技法が編曲の範囲内にとどまる常とう的な手法として用いられることは、前述した「ラ・マリッツァ」と「枯葉」の例にも見られるところであることをも考慮すると、乙曲の甲曲と異なる上記旋律部分の特徴は、量的にも質的にもさほど顕著なものとはいえず、したがって、甲曲が有しない格別の創作的な表現を付け加えるものということはできないし、仮に、新たな創作性の付加があるとしても、その全体に与える影響は微弱なものにとどまると解するのが相当である。
エ 第4フレーズにおいて、甲曲のフレーズDが「シードレドーーーーー」(ゆーこうーーーーーー)となっているのに対し、乙曲のフレーズdは「ラーミーレーーーーー」(すーだーろーーーーー)となっており、この部分では高さの一致する音が見られないが、この点に関しては、上記(3)イで述べたとおり、乙曲が反復二部形式を採用したことに由来する相違にすぎず、本質的な特徴の同一性を損なう要因としてさほど評価することはできないというべきである。なお、甲曲のフレーズDと乙曲のフレーズhについては、上記アで述べたとおりである。
オ 以上検討したところを要約すると、両曲の旋律の相違部分として、最も重視される点は、導音シの有無に係る上記アの相違部分であり、続いて、上行形か下行形かという旋律の流れの異なる上記イの相違部分が挙げられるが、その余の点は、甲曲が有しない格別の創作的な表現を付け加えるものということができないか、新たな創作性の付加があるとしても、その全体に与える影響は微弱なものにとどまると解される。
(5) 旋律全体としての考察 以上に検討した両曲の旋律の類似点、相違点を踏まえて、ここでは、旋律という側面に限定しつつ、その全体的な考察を行う。
ア まず、上記(2)で述べたとおり、甲曲と乙曲は、異なる楽曲間の旋律の類似の程度として、当初から編曲に係るものとして公表された例を除いて、他に類例を見ないほど多くの一致する音を含む(約72%)にとどまらず、楽曲全体の旋律の構成において特に重要な役割を果たすと考えられる各フレーズの最初の3音以上と最後の音及び相対的に強調され重要な役割を果たす強拍部の音が、基本的に全フレーズにわたって一致しており、そのため、楽曲全体の起承転結の構成が酷似する結果となっている。特に、起承転結の「転」に当たる第3フレーズから「結」の前半に当たる第4フレーズの6音目にかけての部分を見ると、経過音レの有無とわずかな譜割りの相違という常とう的な編曲手法に係る差異があるほか、ほとんど同一というべき旋律が22音にわたって連続して存在し、ここだけを見ても、甲曲全体の3分の1以上(全16小節中の5.5小節)を占めている。他方で、両曲の旋律の相違部分として、導音シの有無(上記(4)ア)、上行形か下行形かとの差異(同イ)等が認められ、このうち、特に導音シの有無の点は、乙曲のみが有する新たな創作的な表現を含むものとして軽視することはできないものの、量的にも、質的にも、上記の共通する旋律の組立てによってもたらされる支配的な印象を上回るものではないというべきである。
イ I証言及びI意見書(乙19)、J意見書(乙24)、K意見書(乙25)は、両曲の対比は、原曲(最初に公表されたバージョン)を虚心に聴き比べた印象が重要であると指摘するところ、甲曲が最初に公表されたのは、テレビコマーシャルソングとしてCが歌唱した検甲1のものと認められるが、これは、実演家としてのCの個性が強く表現されているものといわざるを得ない。また、乙曲が最初に公表されたのは、フジテレビの番組「あっぱれさんま大先生」のエンディング・テーマに用いるために子供たちが斉唱したものであって、検甲3の1の2曲目とほぼ同様のものと推認されるが、これは、子供たちによる斉唱という特定の歌唱による印象付けが行われている上、Eによる編曲とSによるストリングス編曲が施されており、歌詞の付された歌曲として両者を聴き比べた場合に、歌詞自体の持つ印象の相違が及ぼす影響も無視することはできない。
本件において、楽曲の表現上の本質的な特徴を直接感得する方法としては、両曲の旋律を楽器演奏したもの(なお、ピアノ伴奏により和声が付されているが、細部の経過和音はともかく、おおむね甲曲と乙曲のそれぞれの和声によっていることがうかがわれる。)として検甲12が、両曲を同一の歌詞及び歌唱法で唱歌したものとして検甲13、18、19がそれぞれ提出されているところ、これらを聴いたときに、甲曲の旋律と乙曲の旋律は、いわゆるデッドコピーというほどの強い類似性があるとはいえないものの、少なくとも、よく似ている旋律が相当部分を占めるという印象を抱くことは否定し難いところといわざるを得ない。特に、検甲13、18、19においては、同じ歌詞で唱歌するという方法自体において、印象の共通性を強める要素が働くことは否定し得ないが、そのことを考慮に入れたとしても、乙曲の旋律から甲曲の旋律の表現上の本質的な特徴を直接感得することは容易である。
また、控訴人らは、甲曲が極めて多様な編曲の創作性の余地を有していることを立証する趣旨で、証拠(甲124、125の各1〜12、検甲2、16、
21、22、28、29)を提出しているので、この観点から更に検討するに、例えば、検甲16は、控訴人A自身が甲曲を編曲したものである「ジャズ風」、「ワルツ」、「ゆっくり」、「はずんで」の4曲を、乙曲と併せて録音したものであるが、それらの譜面(控訴人の平成12年10月25日付け準備書面(三)添付の譜面(五)〜(八))上からも明らかなように、上記4種類の曲の旋律には、甲曲(原曲)と乙曲との違いを上回るほどの大胆な改変が加えられているにもかかわらず、その改変後の4曲から原曲である甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することは容易であり、同様のことは、前掲の各証拠中、検甲16以外のものに係る曲についても妥当する。このことは、甲曲を原曲とする編曲の創作性の余地が、その旋律の改変にもかかわらず、なお相当程度残されることを示すものと解される。
ウ 以上の認定判断を総合すると、旋律に着目した全体的な検討としては、
両曲は表現上の本質的な特徴の同一性を有するものと解するのが相当である。
1-4 和声について (1) 甲曲及び乙曲の和声は別紙1、2(楽譜一、二)に記載のとおりであり、
実際の演奏等において、これと異なる和声によっているものもあることがうかがわれるが、両曲を特定するものとして当事者間に争いのない上記譜面に従って、以下検討する。
(2) 上記各楽譜に、I証言及びI意見書(乙5)、J意見書(乙24)、K意見書(乙25)を総合すれば、甲曲の和声は、「E-B7-E-A-E-A-E-B7-E」と進行するものであり、基本3和音によるいわゆる3コードの曲であり、このような和声進行は、簡素で素朴な曲によく見られる常とう的なものであること、これに対し、乙曲の和声は、「D-G/A-D-G/D-D-G-D-C/D-D7-G-A7-D-F♯+/A♯-Bm-Bm/A-G(Em)-G♯m7♭5-G/A-D-G/A(A7)-D-Dmaj7/(C♯)-D7/(C・)-G/B-A7/G-F♯m-C/D-D7-G-A7/G-F♯m-Bm-Gm/B♭-D/A-G/A-D-Gm6/D-D」と複雑に進行しており、きめ細やかな経過和音と分数コードの多用に特徴があり、さらに、「つらいときなきたいとき」(フレーズf)の部分を盛り上げるため、「D-Dmaj7-D7」と進行させて副旋律としての動きを半音ずつ下げている点、長調でありながら悲しみを表現するBm、G♯m7♭5、Gm/B♭、Gm6/D等の和声を要所に配した点等に創作性を指摘し得ることが認められる。そして、このような和声の相違が、甲曲と乙曲の曲想に一定の影響を及ぼしていることは、上記各意見書の指摘するとおりであり(その詳細は、おおむね被控訴人の主張(前記第3の1の1-2(3))のとおりである。)、甲曲の明るく前向きな印象に対し、乙曲が感傷的な思いを生じさせるという曲想の差異をもたらしている一つの要素となっていることが認められる。
(3) そこで、乙曲が上記のような新たな和声表現を備えるものであることから、旋律に着目した場合の両曲の表現上の本質的な特徴の共通性を減殺し、ひいてその同一性を損なうこととなるかどうかという観点から更に検討するに、甲曲の楽曲としての表現上の本質的な特徴は、主として、その簡素で親しみやすい旋律にあることは前示のとおりであり、他方、乙曲も、大衆的な唱歌に用いられる楽曲としての基本的な性格は甲曲と同じであり、乙曲に接する一般人の受け止め方として、
歌唱される旋律が主、伴奏される和声は従という位置付けとなることは否定し難い。これらの点を踏まえると、和声の相違が両曲の曲想に前述したような差異をもたらしているとはいえ、その差異も決定的なものとはいい難く、旋律に着目した場合の両曲の表現上の本質的な特徴の共通性を上回り、その同一性を損なうものということはできない。
なお、被控訴人本人(当審)中には、自身の作曲法について、旋律、和声、リズム等の要素の全体が立体的に頭に浮かぶ旨を供述する部分があるが、被控訴人の作曲の手法がそのとおりであるとしても、その結果として最終的に作曲された乙曲について甲曲との表現上の本質的な特徴の同一性の有無を問題とすべきであるから、上記の認定を左右するものではない。
また、I証言及びI意見書(乙5)、J意見書(乙24)、K意見書(乙25)等において、甲曲の和声に乙曲の旋律を乗せた場合に、前記の導音シの部分で音が濁る(ディスコードする)ことを指摘する部分があり、このこと自体は検乙16(トラックナンバー17)からも肯定し得る事実であるが、改変後の旋律を原曲の和声に乗せてディスコードすることなく進行させ得るかどうかということは、
表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているかどうかとは直接関係のない事柄であって、上記の判断を左右しない。
1-5 その他の要素について (1) まず、リズムに関して、甲曲が2分の2拍子、乙曲が4分の4拍子であることは、別紙1、2記載の各楽譜から明らかであるが、2分の2拍子の原曲を4分の4拍子に変更する程度のことは、演奏上のバリエーションの範囲内といえる程度の差異にすぎないことは前述のとおりである。また、テンポについては、そもそも本件において甲曲及び乙曲の基準となる別紙1、2記載の各楽譜に何らの指定もされていないから、これを判断材料とすることは相当でない。なお、実際の演奏上、
甲曲が1分間に2分音符116回、乙曲1分間に4分音符96回の速さ(I意見書、乙5)、あるいは、甲曲が1分間に2分音符112回、乙曲が1分間に4分音符100回の速さ(P意見書、甲24の5)という程度の相違があるものも存在することは認められるが、他方、甲曲の楽譜が掲載されている教科書等において、その速さを、1分間に2分音符104〜112回(甲78、79)、同96回(甲74、75)、同88〜96回(甲76、77)などとされているものもあることからすると、仮に、テンポの違いがあるとしても、基本的には演奏上のバリエーションの範囲内というべき差異にすぎず、原曲の表現上の本質的な特徴の同一性を損なうような違いであるとは到底認められない。
(2) 形式については、既に述べたとおり、甲曲が4フレーズ1コーラスをA-B-C-Aの起承転結で構成するものであるのに対し、乙曲が、おおむね[a-b-c-a′]-[a-b-c-a]という反復二部形式を採るものであるところ、
両者は、むしろ4フレーズの起承転結に係る構成の共通性にこそ顕著な類似性が認められるものであって、これを繰り返して反復二部形式とすることは、編曲又は複製の範囲内にとどまる常とう的な改変にすぎないというべきである。その他、両曲の楽曲としての表現上の本質的な特徴の同一性を損なう要因は見当たらない。
1-6 争点1のまとめ 以上のとおり、乙曲は、その一部に甲曲にはない新たな創作的な表現を含むものではあるが、旋律の相当部分は実質的に同一といい得るものである上、旋律全体の組立てに係る構成においても酷似しており、旋律の相違部分や和声その他の諸要素を総合的に検討しても、甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているものであって、乙曲に接する者が甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできるものというべきである。
2 争点2(依拠性)について (1) 被控訴人は、当審における本人尋問及び陳述書(乙6、23)において、
乙曲の作曲経過及び甲曲へのアクセス等に関し、@ 平成4年5月ころ、ポニーキャニオンのHと作詞家のDから、フジテレビの「あっぱれさんま大先生」という番組のエンディング曲の作曲依頼があったこと、A 当該楽曲のイメージとしては、「仰げば尊し」の現代版として卒業式等で歌い継がれるようなものにして欲しいという依頼であり、歌詞はDによって既に制作されていたこと、B 被控訴人は、この依頼を引き受け、2種類の楽曲(乙18の1、2)を作曲し、その一つ(乙18の1)である乙曲が採用されることになったこと、C その作曲に際しては、子供達が歌うことを前提に、音域をあまり広げないこと、テンポはゆっくりだが8ビートのリズムに合うフレーズとそれに合うコードを使うことを考え、基本的には、歌詞の情景を思い浮かべながら自然に作曲したものであり、甲曲は参考にしていないこと、D その後5年余りを経過した平成10年4月に、控訴人Aから、乙曲が甲曲の著作権を侵害しているとの趣旨の内容証明郵便が届いたことから、被控訴人が自身の編曲の実績を記録しているライブラリーを調べたが、甲曲の編曲を担当した事実はないことが確認されたこと、E その時点では甲曲のタイトルからその内容が思い浮かばなかったため、弁護士を通じて甲曲のテープと譜面を手に入れて確認したところ、
以前聴いたことのある曲かどうかも定かでなかったが、アメリカのカントリーソングなどによくある曲で、乙曲とは似ていない楽曲であったため、安心したこと、F 歌手のFとは、昭和34年ころから昭和39年ころまでは親しく付き合っていたが、甲曲に関しての接点はなく、また、ブリヂストンの社歌を作曲したこともあるが、甲曲を参考にしたことはないこと、G 被控訴人は、過去40年間で7万曲に上る作曲、編曲を行っており、テレビコマーシャルを見るような機会はほとんどなく、コマーシャルソングが耳に入ることがあっても、多作するための習慣として意識から消えてしまうこと、H 被控訴人にとって、乙曲のような簡素な曲を作曲することは造作もないことで、人まねをしなければならない事情は全くないこと、おおむね以上の趣旨を供述ないし記載している。なお、このうち、被控訴人が乙曲を作曲した経緯に係る上記@〜Bの点は、Hの陳述書(乙7、20)、Dの陳述書(乙8、21)、Eの陳述書(乙9)及びGの陳述書(乙22)に沿うものである。
(2) 以上のとおり、被控訴人は、依拠性を全面的に争うので、以下、依拠の事実を基礎付けるに足りる間接事実が認められるかどうかという観点から検討する。
ア まず、甲曲が一般にどの程度知られているかを見るに、甲曲は、昭和41年にブリヂストンのテレビコマーシャルにおいてCが歌唱する形で公表された後、「このフォーク調のCMソングは、たちまち若者の間にひろがり、その人生応援歌的な歌詞は中年層にも共感をよんで、今でも歌いつがれている」(昭和57年3月1日ブリヂストン発行の「ブリヂストンタイヤ五十年史」〔甲29の1〕)と評されるように話題となり、昭和42年には、歌手Fの歌唱に係る甲曲がキングレコード株式会社からシングル版のレコードとして発売されたこと(甲21)が認められる。なお、平成14年に人気歌手のTが甲曲のアレンジ曲をブリヂストンのコマーシャルソングとして歌うことになった際、複数のスポーツ紙に、「Tが名曲に挑戦」等の見出しで、甲曲が昭和41年に「大ヒット」、「一世を風靡」したことを説明する記事が掲載された(甲121)。甲曲の公表後も、その楽譜は、控訴人Aの実名を著作者名として表示した上、昭和47年5月10日株式会社ドレミ楽譜出版社発行の「CMソング傑作集」(甲5)ほかの多数のコマーシャルソング集や歌集に掲載されている(甲6、59、82)ほか、小中学校の教科書においても、
昭和50年1月20日株式会社音楽之友社発行の「改訂新版 中学生の音楽2」(甲80)、同年12月10日株式会社教育芸術社発行の「中学生の音楽2」(甲74)、昭和53年1月20日株式会社音楽之友社発行の「精選 中学生の音楽2」(甲81)、昭和54年12月10日株式会社教育芸術社発行の「小学生の音楽6」(甲76)、昭和61年2月10日東京書籍株式会社発行の「新編 新しい音楽4」(甲22の1、甲79)、平成元年2月10日同社発行の「新訂 新しい音楽4」(甲78)等の大手教科書出版社のものを含む複数の教科書に継続的に掲載されている。その教師用の指導書(甲75、77)には、「よく知っている曲なので・・・」、「コマーシャル・ソングとして広く知られるようになった曲で・・・」などと記載されているほか、甲曲に係る「指導目標」として「音楽の新しい使われ方や、効果について認識させる」、これに対応する「指導内容」として「マスコミにより、音楽に新しい分野ができたことに気づかせ、生活と音楽の現代における結びつきと、その効果について考えさせる」との記載があり、これによれば、コマーシャルソングという新しい音楽分野が現代の生活の中で大きな役割を果たすようなったことを生徒に理解させる上で、甲曲はその代表例として取り上げるにふさわしい楽曲と位置付けられていることが認められる。さらに、甲3、4、甲125の1、4〜12の楽譜及び検甲21によれば、ブリヂストンは、この間、少なくとも昭和55年ころまでは、甲曲の様々なバリエーションをコマーシャルソングとして継続的に使用してきたことが認められる。
以上の事実に、控訴人金井音楽出版代表者Uの陳述書(甲114)及び弁論の全趣旨を総合すれば、甲曲は、昭和41年に公表された当時にコマーシャルソングとして広範な層の国民に絶大な人気を博したばかりでなく、その後も、長く歌い継がれる大衆歌謡ないし唱歌としての地位を確立し、昭和40年代から乙曲の作曲された当時(平成4年)にかけての時代を我が国で生活した大多数の者によく知られた著名な楽曲であることが認められ、被控訴人が本訴提起の直後に受けた放送記者のインタビューに対する応答(甲85、検甲24)からも、被控訴人自身、
これと別異の認識を有していたわけではないことがうかがわれる。
イ 上記の事実に加え、被控訴人は、甲曲の公表前ではあるが、歌手Fが昭和35年と昭和37年の2回にわたり旧ソ連へ公演旅行した際に伴奏者としてこれに同行するなど同グループと親しい付き合いがあったことは被控訴人も当審における本人尋問において自認するとおりであるところ、甲曲の公表の前後を通じて、被控訴人がFの歌う曲の作編曲を多数手掛けていることは、証拠(甲57、62、65〜67、83、甲91添付の「キングレコード番号順総目録《邦楽》 ’66」)によって認められるところであり、Fのレパートリーの一つでシングル版のレコードまで発売している甲曲との接点を推認させる一つの事情となるものである。また、被控訴人が昭和59年ころブリヂストンの社歌を作曲したとの事実も被控訴人本人(当審)の自認するところであるが、甲曲がブリヂストンの代表的なコマーシャルソングであって、同社の「愛唱歌」として位置付けられており(甲60)、被控訴人による上記社歌作曲の直前である昭和57年3月にブリヂストンから発行された「ブリヂストンタイヤ五十年史」(甲29の1)には、甲曲の譜面全部が掲載されるとともに、甲曲が上記のとおり中学校の音楽教科書にまで収録された控訴人Aの作詞・作曲に係る国民的唱歌であることが特に紹介され、「ブリヂストンタイヤ五十年史資料」(甲29の2)には、昭和41年の社内事項として「12月 CMソング『どこまでも行こう』放送開始」と記載されていることにも照らすと、上記の事実もまた、被控訴人が甲曲に接していたことを推認させる一つの事情となり得るものと解される。
ウ そして、何より、甲曲と乙曲の旋律の上記のような顕著な類似性、とりわけ、全128音中92音(約72%)で両曲は同じ高さの音が使われているという他に類例を見ない高い一致率、楽曲全体の3分の1以上に当たる22音にわたって、ほとんど同一の旋律が続く部分が存在すること、乙曲は反復二部形式を採用しているものの、その前半部分と後半部分に見られる基本的な旋律の構成は、甲曲の起承転結の構成と酷似していること、他方、甲曲程度の比較的短い楽曲であっても、その旋律の組立てにはそれ相応の多様な創作性の余地が残されていると解されることは前示のとおりであり、以上のような顕著な類似性が、偶然の一致によって生じたものと考えることは著しく不自然かつ不合理といわざるを得ない。そうすると、このような両者の旋律の類似性は、甲曲に後れる乙曲の依拠性を強く推認させるものといわざるを得ない。
(3) 次に、依拠性を否定すべき事情として被控訴人の主張する点について検討する。
ア 被控訴人は、乙曲はいわゆる詞先の曲であるところ、乙曲の歌詞から甲曲は連想されないことを理由に、依拠性は否定されるべきである旨主張する。確かに、乙曲がいわゆる詞先の曲であること自体は、上記(1)の被控訴人本人(当審)及び同掲記の各陳述書により認められるところであるが、依拠の具体的な態様が、乙曲の歌詞からの連想という限定された思考経路をたどらなければならない必然性はなく、むしろ、曲想のかけ離れた楽曲間でも編曲が生じ得ること(例えば、クラシック音楽の繊細で落ち着いた曲想の旋律に依拠しつつ、情熱的な曲想の現代ポピュラー曲に改変するなど)を考えれば、乙曲がいわゆる詞先の曲であることは、依拠性を否定すべき事情としてさほど評価することはできない。
イ また、被控訴人は、甲曲が慣用的な音型の踏襲であることを理由として、旋律の類似性は依拠性を推認させるものではない旨主張するが、両曲の旋律の顕著な類似性が、せいぜい1フレーズ程度の旋律部分に見られるような慣用的な音型の一致が重なったものと説明し得るようなものでないことは前示のとおりである。
ウ さらに、被控訴人は、自身は経験と実績を十分有する作曲家であって、
乙曲のような簡素な16小節の楽曲を制作するのに造作はなく、曲想のかけ離れた甲曲をわざわざ参考にする必要性がない旨主張し、陳述書(乙6、23)及び当審における本人尋問の結果中にも同旨の記載及び供述があるほか、I証言では、被控訴人が甲曲に依拠して乙曲を作曲するような何ら利のないことをする必然性や動機がないことを指摘している。また、被控訴人が、日本作編曲家協会会長、社団法人日本音楽著作権協会理事、日本レコード大賞実行委員長、東京音楽大学客員教授等を歴任し、経験と実績のある作編曲家として高く評価されていることは証拠(I証言、甲27、39、乙6、23)によって認められるところである。しかしながら、原曲のいわゆるデッドコピーに類するような楽曲を自らの作品と称して公表したといった事案であれば格別、被控訴人が、甲曲に依拠しつつも、自らの創作的な表現を盛り込むことによって、甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しない別個独立の楽曲である乙曲を作曲したと考えていたところ、結果的に、甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を損なうほどの創作的な表現が乙曲に盛り込まれなかったために、法的には甲曲に係る編曲権の侵害を生じたという事態は、被控訴人の上記経歴を考慮しても、なお起こり得ることであり、一般に経験則上否定されるべき事実ということはできない。したがって、被控訴人の上記主張及びこれに沿う証拠は、それ自体として、依拠性を否定すべき十分な根拠を有するものではない。
エ 被控訴人は、甲曲の作品届の提出時から乙曲の作曲時までの間には四半世紀の時が経過しているのに、甲曲が流布していたことを示す客観的な証拠は全く提出されていない旨主張する。しかしながら、甲曲が昭和41年に公表されてから長く歌い継がれて大衆歌謡ないし唱歌としての地位を確立し、昭和40年代から乙曲の作曲時である平成4年にかけての時代を我が国で生活した大多数の者によく知られた著名な楽曲であること、被控訴人が控訴人Aとほぼ同世代に属し、長年にわたり我が国で音楽活動をしてきた経験と実績を有する作編曲家であることは上記のとおりであり、四半世紀の時の経過という点だけをとらえて依拠性を否定することはできない。なお、最高裁昭和53年9月7日第一小法廷判決・民集32巻6号1145頁の事案は、米国内で公表され我が国でヒットしたこともない原曲の公表時から約30年後に我が国で作曲された楽曲の原曲に対する依拠性が否定されたものであり、本件とは明らかに事案を異にする。
(4) 以上の認定判断を総合するに、甲曲は、昭和40年代から乙曲の作曲された当時(平成4年)にかけての時代を我が国で生活した大多数の者によく知られた著名な楽曲であって、甲曲と乙曲の旋律の間には乙曲が甲曲に依拠したと考えるほか合理的な説明ができないほどの上記のような顕著な類似性があるほか、被控訴人が乙曲の作曲以前に甲曲に接したであろう可能性が極めて高いことを示す客観的事情があり、これを否定すべき事情として被控訴人の主張するところはいずれも理由がなく、他に的確な反証もないことを併せ考えると、乙曲は、甲曲に依拠して作曲されたものと推認するのが相当である。この認定に反する被控訴人の当審における本人尋問の結果及び陳述書(乙6、23)の記載は、採用することができない。
3 本訴請求に係る侵害論のまとめ 乙曲は、既存の楽曲である甲曲に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより創作されたものであり、これに接する者が甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできるものというべきである。そうすると、被控訴人が乙曲を作曲した行為は、甲曲を原曲とする著作権法上の編曲にほかならず、その編曲権を有する控訴人金井音楽出版の許諾のないことが明らかな本件においては、被控訴人の上記行為は、同控訴人の編曲権を侵害するものである。
また、被控訴人が控訴人Aの意に反して甲曲を改変した乙曲を作曲した行為は、同控訴人の同一性保持権を侵害するものであり、さらに、同控訴人が甲曲の公衆への提供又は提示に際しその実名を著作者名として表示していることは前示のとおりであるところ、被控訴人は、乙曲を甲曲の二次的著作物でない自らの創作に係る作品として公表することにより、同控訴人の実名を原著作物の著作者名として表示することなく、これを公衆に提供又は提示させているものであるから(乙曲について同控訴人の実名を原著作物の著作者名として表示することなく公衆への提供又は提示がされていることは当事者間に争いがない。)、この被控訴人の行為は、同控訴人の氏名表示権を侵害するものである。
そして、上記著作権及び著作者人格権の侵害について、被控訴人に故意又は過失のあったことは、これまでの認定事実に照らして明らかというべきであるから、被控訴人は、控訴人らに対する損害賠償義務を免れない。
4 争点3(控訴人らの損害)について 4-1 控訴人金井音楽出版の損害 (1) 控訴人金井音楽出版は、著作権(編曲権)侵害による損害賠償として、著作権法114条2項に規定する「通常受けるべき金銭の額に相当する額」の支払を求めているが、平成13年1月1日に施行された平成12年法律第56号により上記規定の「通常」の文言が削除され、本件においても、同法による改正後の規定が適用されることは明らかであり、弁論の全趣旨に照らし、同控訴人の主張の趣旨とするところも、これと殊更に別異の前提に立つものではないと解されるから、以下、改正後の規定に基づく、甲曲に係る著作権(編曲権)の行使につき「受けるべき金銭の額に相当する額」(以下「相当対価額」という。)について判断する。
(2) 録音、映画録音ビデオグラム録音及び出版に係る相当対価額について ア 調査嘱託に対する協会の平成13年10月29日付け、同年12月6日付け各回答書及び乙12の3によれば、歌曲「記念樹」の楽曲(乙曲)の著作権及び歌詞の著作権は、著作権者であるフジパシフィックと協会との間の著作権信託契約に基づいて協会が管理していることが認められるところ、上記回答書にあるとおり、歌曲「記念樹」の使用料として協会がフジパシフィックに対して既に分配した金額(平成5年3月分配期分〜平成11年3月分配期分)及び分配を保留(本件訴訟が係属中であり、乙曲の著作権者が不確定であることを理由とするものである。)している金額(平成10年12月保留期分〜平成12年12月保留期分)の合計額が、別紙5、6記載の内訳により、録音につき108万2500円(分配額85万0539円、分配保留額23万1961円)、映画録音につき240円(分配額0円、分配保留額240円(ただし、楽曲分のみ))、ビデオグラム録音につき9800円(分配額5370円、分配保留額4430円)、出版につき102万6686円(分配額58万7219円、分配保留額43万9467円)、以上合計211万9226円(分配額144万3128円、分配保留額67万6098円)であることは、当事者間に争いがない(この分配額及び分配保留額を併せて以下「分配額等」という。)。
そして、控訴人金井音楽出版は、上記分配額等は甲曲の相当対価額を構成する旨主張するところ、音楽著作権の管理が、実際上、大多数の場合において、
協会に対する信託を通じてされていること、当該管理は、協会の使用料規程及び分配規程に準拠して行われていること、この使用料規程については、平成12年法律第131号による廃止前の著作権に関する仲介業務に関する法律(昭和14年法律第67号)3条の規定により文化庁長官の認可を受けていたものであることは当裁判所に顕著であるから、協会の使用料規程及び分配規程に基づく著作物使用料の徴収及び分配の実務は、音楽の著作物の利用の対価額の事実上の基準として機能するものであり、著作権法114条2項に規定する相当対価額を定めるに当たり、これを一応の基準とすることには合理性があると解される。その上で、被控訴人が主張する個別の問題について、以下、順次検討する。
イ まず、被控訴人は、上記分配保留額は、本件訴訟が確定した時点で正当な権利者に支払われるものであるから、控訴人金井音楽出版の損害を構成しない旨主張する。しかし、同控訴人において、録音、映画録音ビデオグラム録音及び出版に係る分配額等を損害項目として主張している趣旨が、あくまでも著作権法114条2項に基づき甲曲に係る著作権(編曲権)の行使につき受けるべき相当対価額の算定上の問題にあることは明らかであるから、たまたま本件訴訟の係属によってフジパシフィックへの分配が保留されている(分配規程5条3項〔甲107〕、著作権信託契約約款15条2号〔甲40〕参照)からといって、そのことにより、上記相当対価額に消長を来すものではない。また、分配が保留されているとの一事をもって、現実の損害のてん補又はこれと同視すべき事情ということもできない。
ウ 次に、被控訴人は、上記分配額等は、作詞者であるD及び歌手に対する分配分も含まれているから、これを控除すべき旨主張するところ、まず、歌手に対する分配をいう点の主張は採用することができない。すなわち、協会の著作権信託契約約款(甲40)から明らかなように、協会は、音楽の著作物の著作権の管理を受託する趣旨で、作詞者、作曲家、音楽出版社その他当該著作物の著作権者から著作権の信託を受け、その管理によって得た著作物使用料等を委託者である著作権者等に分配するものであるから、上記分配額が、実演家である歌手に対する分配分を含むものとは認められず、その分配分が存在することを前提にその控除をいう被控訴人の主張は失当である。
そこで、作詞者に対する分配分の控除をいう点の被控訴人の主張について検討するに、確かに、歌曲「記念樹」が作詞者と作曲者との共同著作物(著作権法2条1項12号)であるとか、その歌詞に係る著作権が消滅しているといった事情を認めるに足りる証拠がない本件においては、いわゆる結合著作物として、その楽曲(乙曲)についての著作権とは別個独立に、歌詞についての著作権が存在していることは明らかである。他方、前記分配額等が、乙曲という楽曲単独での使用料としてではなく、歌曲「記念樹」の使用料として現に分配され、又は分配を予定されているものであることは、その協会に対する作品届(乙12の3)に照らして明らかである。そうすると、上記分配額等は、歌曲「記念樹」の歌詞の著作物の利用の対価額を含んでいることは明らかというべきであって、楽曲としての乙曲の相当対価額の算定上は、これを控除するのが相当である。この点について、控訴人金井音楽出版は、歌曲「記念樹」は、甲曲の編曲権及び著作者人格権を侵害している違法なものであるから、楽曲はもとより歌詞に関しても、著作物使用料の分配請求権はない旨主張するが、歌曲について、歌詞と楽曲のそれぞれについて著作権が併存し、各別に利用の対価を観念し得るということと、編曲の適法性の問題とは次元を異にするから、同控訴人の上記主張は理由がない(なお、控訴人金井音楽出版自身、映画録音に係る相当対価額の主張に限っては、歌詞分を控除して主張しているところである。)。
エ ところで、歌曲「記念樹」が、Eの編曲が施されたものとして公表され、公衆に提供又は提示されていることは前述のとおりであるから、その編曲者としての取り分を問題とする余地があるほか、そもそも、乙曲は甲曲を原曲としつつ、被控訴人の創作的な表現が加えられた二次的著作物であることは前述のとおりであるから、被控訴人が、当該二次的著作物としての著作権を有していること自体を否定することはできない。そうすると、甲曲を原曲とする二次的著作物である乙曲の利用の対価額中には、原曲の著作権者に分配されるべき部分と、二次的著作物の著作権者及びその編曲者に分配される部分とを観念し得るというべきである。したがって、甲曲の相当対価額を定めるに当たっては、上記分配額等から、後者の分配分を控除すべきであり、その控除されるべき割合は、原曲の編曲者への分配率に準じて定めるのが相当である(被控訴人は、この趣旨を明示的に主張していないが、その基礎となる事実関係自体は、主張上も証拠上も明らかに提出されている以上、これを参酌することに妨げはない。)。
なお、控訴人金井音楽出版において、歌曲「記念樹」の創作過程の違法性を理由に、その関係者への分配分は否定されるとの趣旨の主張をしていることは上記のとおりであるが、現行著作権法が、二次的著作物に著作権が発生し同法上の保護を受ける要件として、当該二次的著作物の創作の適法性を要求していないことは、同法2条1項11号の文言及び旧著作権法(明治32年法律第39号)からの改正経過(例えば、旧著作権法22条の適法要件の撤廃)に照らして明らかであるから、上記主張は失当というべきである。また、以上の点は、編曲によって付加された創作性ゆえに二次的著作物の市場価値が増し、当該二次的著作物の相当使用料が高額となる場合もあることを考えれば、十分な正当性を持つものというべきである。もっとも、編曲を伴う著作物の利用許諾を内容とするライセンス実務を前提として、当該ライセンス料に基づいて相当対価額を算定する方法によった場合に、編曲者への分配分の控除という問題を生ずる余地がないことは当然であるが、本件において控訴人金井音楽出版の主張する甲曲の相当対価額の算定は、その二次的著作物である乙曲の現実の使用料を基準とするものであって、両者の方法を同列に論ずることはできない。
オ そこで、進んで、上記分配額等から、作詞者(D)及び編曲者(被控訴人及びE)への分配分として控除すべき金額を検討する。
まず、録音ビデオグラム録音及び出版については、控訴人金井音楽出版において、歌詞分を控除していない分配額等(その合計は211万8986円である。)に基づく相当対価額を主張しているところ、協会の分配規程3条29条(甲106、107)において、録音ビデオグラム録音及び出版に係る使用料の作曲者、作詞者及び編曲者への分配率は、関係権利者がこれらの三者である場合、
作曲者3/8、作詞者4/8、編曲者1/8と定められていることが認められるところ、これを本件に適用することを不合理とする事情も認められないから、この分配率に準拠することとする。そうすると、録音ビデオグラム録音及び出版に係る甲曲の利用についての相当対価額は、上記分配額等に、原曲の著作権者である控訴人金井音楽出版への分配率3/8を乗じて計算した79万4619円(A)(上記分配額等の合計2,118,986円×3/8=794,619円、円未満切捨て。以下同じ。)と認めるのが相当である。
そして、映画録音に係る甲曲の利用についての相当対価額は、映画録音に係る楽曲のみの分配額が240円であるところ、これから編曲者に対する分配分を控除するのが相当であるから、分配規程29条(甲106、107)に定める録音に係る使用料の分配率(関係権利者が作曲者及び編曲者の場合、作曲者6/8、
編曲者2/8)に準拠することとし、これを180円(B)(240円×6/8=180円)と認めるのが相当である。
(3) 放送及び放送録音に係る相当対価額について ア 控訴人金井音楽出版は、放送及び放送録音に係る相当対価額は、1曲1回当たりの使用料の積算によるべき旨主張するのに対し、被控訴人は、甲曲を放送する場合であっても、包括使用料方式による使用料の分配しか得られないのであるから、1曲1回当たりの使用料を基準とするのは不当である旨主張する。
イ 上記の点について検討するに、協会の使用料規程(甲105)及び分配規程(甲106)並びに前記調査嘱託に対する協会の各回答書(添付資料を含む。)によれば、一般放送事業者の行う放送に係る使用料については、使用料規程上は、1年間の使用料額を包括的に決定する包括使用料による場合(第2章第3節2(1))と1曲1回当たりの使用料を積算する曲別使用料による場合(同(2))があり得るとされているところ、実際の協会の実務上は包括使用料方式が採用されていること、一般放送事業者の行う放送録音に係る使用料については、使用料規程上は、テレビジョン映画に主題歌又は挿入歌曲として著作物を使用する場合の録音として、1曲1回当たりの使用料が定められているが(第2章第4節1(1)(イ)、(2))、実際には、前同様の包括使用料によっていること、これらの包括使用料方式においては、曲別の分配額を調査確認することは膨大な作業量を要するものであり、そのため、上記調査嘱託に対する協会の回答書においても、平成12年12月分配期分に限定した回答しか得られていないこと(これ以上の調査を協会に求めることは、調査嘱託の限界を超えるものと解される。)が認められる。
上記認定事実によれば、放送及び放送録音において、1曲1回当たりの使用料を積算する算定方法を採用すること自体、協会の使用料規程の定めるところ(前者につき第2章第3節2(2)、後者につき第2章第4節1(1)(イ)、(2))であるから、これを基準とすることを不合理ということはできず、協会の現実の実務上は専ら包括使用料方式が採用されているとしても、この判断を左右するものではない。なお、包括使用料方式は、1曲1回当たりの使用料を積算する方式よりも全体として低廉な使用料として設定することにより、著作物を利用しようとする者に事前に利用許諾を受けるインセンティブを与えるという意味合いがあることがうかがわれるところであるから、このような観点からしても、侵害事件における損害額の算定上、包括使用料方式の採用を正当化することはできない。
ウ 被控訴人は、仮に、乙曲ではなく甲曲が放送及び放送録音されたとしても、協会の管理手数料相当額は当然発生するものであるから「通常受けるべき」損害額を構成するものではなく、相当対価額の算定上、控除されるべきである旨主張するが、そもそも現行著作権法114条2項においては、「通常」の文言が削られていることは上記のとおりであるし、音楽著作権の管理を協会に委託するかどうかは自由なのであるから、協会の管理手数料が当然発生するものとはいえず、上記主張は採用することができない。
エ そこで、進んで、1曲1回当たりの使用料を積算する方式に則って、放送及び放送録音に係る相当対価額を算定する。
証拠(甲103、甲110の1〜372、甲111の1〜274、検甲17)によれば、平成5年1月から平成13年11月までの間に、テレビ番組「あっぱれさんま大先生」及び「やっぱりさんま大先生」は、少なくともフジテレビにおいて372回、関西テレビにおいて274回放送され、これらの番組において乙曲がエンディング・テーマ曲として利用されたことが認められ、この点については特段の反証もない。また、上記の放送回数が再放送を含むと認めるに足りる証拠はないから、上記各放送ごとに乙曲の放送録音(テレビジョン映画に主題歌及び挿入歌曲として著作物を使用する場合の録音)が行われたことも十分推認し得るものである。
そして、使用料規程第2章第3節2(2)(甲105)によれば、放送の場合の1曲1回当たりの使用料単価は、フジテレビが8000円(第1類、5分まで)、関西テレビが5600円(第2類、5分まで)(なお、第1類、第2類の類別につき甲113参照)であるが、他方、分配規程8条(甲106、107)によれば、放送に係る使用料の分配率は、関係権利者が作曲者、作詞者及び編曲者の場合、作曲者5/12、作詞者5/12、編曲者2/12とされているから、前記(1)ウ、エで述べたところと同様、作詞者及び編曲者への分配分は控除するのが相当である。そうすると、放送に係る甲曲の利用についての相当対価額は、フジテレビ分が124万円(8,000円×372回×5/12=1,240,000円)、関西テレビ分が63万9333円(5,600円×274回×5/12=639,333円)、以上合計187万9333円(C)と認めるのが相当である。
また、放送録音については、使用料規程(甲105)において、「普通映画」(第2章第4節1(1))に主題歌又は挿入歌曲として著作物を使用する場合、「文化映画、5分未満」で1200円であるところ、「テレビジョン映画」(同(2))はその20/100とされているから、基準となる単価は240円(1200円×20/100=240円)である。そして、この単価は、「歌詞、楽曲それぞれ」に適用されることが明示されているから、作詞者に対する分配分を控除する必要はないが、楽曲分については編曲者に対する分配分を控除するのが相当であるところ、分配規程29条(甲106、107)によれば、録音に係る使用料の分配率は、関係権利者が作曲者及び編曲者の場合、作曲者6/8、編曲者2/8とされているから、これに準拠することとし、結局、放送録音に係る甲曲の利用についての相当対価額は、11万6280円(D)(240円×(372+274)回×6/8=116,280円)と認めるのが相当である。
(4) 弁護士費用について 以上のとおり、相当対価額による控訴人金井音楽出版の損害額は、上記(2)、(3)の認定額の合計額である279万0412円であるところ、被控訴人の侵害行為と相当因果関係を有する損害として認められる弁護士費用は、本件事案の内容、訴訟経過等の諸般の事情を勘案して60万円(E)と認めるのが相当である。
(5) したがって、編曲権侵害によって控訴人金井音楽出版の被った損害額は、
同控訴人の本訴による一部請求分としては、上記(A)〜(E)の合計339万0412円となる。
4-2 控訴人Aの損害 被控訴人が、控訴人Aの意に反して甲曲を原曲とする二次的著作物である乙曲を作曲し、これを、同控訴人の実名を原著作物の著作者名として表示することなく、自らの創作に係る作品として公表し、公衆に提供又は提示させたことにより、
同控訴人の甲曲に係る著作者人格権(同一性保持権及び氏名表示権)が侵害されたことは前述のとおりである。そして、証拠(甲25、54、87、100、115、検甲24)によれば、控訴人Aは、コマーシャルソングの音楽史に残るといわれる傑作を多数作曲した第一人者として評価されているほか、昭和47年「ピンポンパン体操」でレコード大賞童謡賞、昭和51年「北の宿から」でレコード大賞を受賞するなど、幅広い作曲活動で知られる作曲家であること、6000曲にも及ぶ同控訴人のコマーシャルソングの作品中にあって、甲曲は代表作の一つとされ、同人自身も、同様の認識の下に甲曲に対する強い自負と愛着を抱いていることが認められ、しかも、甲曲は、コマーシャルソングとして公表されたものでありながら、
多くの教科書に掲載されるなど、長く歌い継がれる大衆歌謡ないし唱歌としての地位を確立した著名な楽曲であることは前述のとおりである。このような甲曲を、乙曲という形で、その意に反して改変された上、乙曲を甲曲の二次的著作物でない被控訴人自らの創作に係る作品として、控訴人Aの実名を原著作物の著作者名として表示されることなく、フジテレビの番組のエンディング・テーマ曲等として公衆に提供又は提示されたことは前示のとおりであり、その状態が平成4年12月ころから本件口頭弁論終結時まで約10年間にわたって継続していることは弁論の全趣旨によって認められるところである。
以上の事実に、改変の態様その他これまでに認定した一切の事情を総合考慮すると、上記著作者人格権の侵害に係る控訴人Aの精神的苦痛を慰謝するための慰謝料の額は500万円、被控訴人の侵害行為と相当因果関係を有する損害として認められる弁護士費用は100万円と認めるのが相当である。
5 反訴請求について 被控訴人の反訴請求は、控訴人Aに対し、被控訴人が乙曲について著作者人格権を有することの確認を求めるものであるところ、乙曲が甲曲の編曲に係る二次的著作物であること及び当該編曲が違法といわざるを得ないことは前述のとおりであるが、現行著作権法が、編曲に係る二次的著作物について編曲者に著作者人格権が発生するための要件として、当該編曲の適法性を要求するものでないことは、著作権に関して前述したところと同様である。そうすると、被控訴人は、乙曲について著作者人格権を有することが認められる。
なお、控訴人らは、当審において、乙曲は甲曲を複製したものであるとの主張を撤回して、専ら編曲に係る二次的著作物であるとの主張に変更していることから、被控訴人の反訴請求に係る確認の利益に疑問の余地がないではないが、控訴人Aにおいて、被控訴人が乙曲について著作者人格権を有することを明示的に認める主張をしているものではなく、専ら反訴請求を棄却する判決を求めており、しかも、編曲に係る二次的著作物について編曲者が著作権法上の保護を受ける要件として、編曲の適法性が要求されるとの解釈を前提としていると解される主張もしていることを併せ考えると、被控訴人と同控訴人との間において、被控訴人が乙曲について著作者人格権を有することを確定させることが必要かつ適切であるから、確認の利益も肯定されるというべきである。
したがって、被控訴人の控訴人Aに対する反訴請求は理由がある。
6 結論 以上のとおり、控訴人らの本訴請求中、控訴人Aにおいて600万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成13年12月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求め、控訴人金井音楽出版において339万0412円及びこれに対する前同様の遅延損害金の支払を求める限度で、それぞれ理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも棄却すべきであり、
また、原判決中、被控訴人の控訴人Aに対する反訴請求を認容した部分は相当である。
よって、以上の判断と結論を異にする本訴請求についての原判決主文第1項を本判決主文第1項のとおり変更し、反訴請求についての原判決主文第2項に関する控訴人Aの本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法67条2項61条64条、仮執行の宣言につき同法259条を各適用して、主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 篠原勝美
裁判官 長沢幸男
裁判官 宮坂昌利
  • この表をプリントする